【代表レポート】

美浜タウンリゾートアメリカンビレッジ
― 西海岸地区のロケーションを活かしたまちづくり ―

沖縄県本部/北谷町職員労働組合

1. 自然条件

 本町は、県都那覇市から約16kmの沖縄本島中部に位置し、町土の公示面積は13.62k㎡で、南北約6km、東西約4.3kmとやや長方形をなしております。町の西部は平坦で海岸の汀線延長5.6kmの全面が東シナ海に面しており、東部は丘陵をなし彼方には慶良間諸島を望むことができ眺望の良い地域であります。
 気候は、亜熱帯性気候で四季を通じて温暖であり、平均気温は約22度程度であります。

2. 歴  史

 北谷は、1908年(M41)に特別町村制が布かれたことに伴い、村制が施行されました。沖縄本島中部に位置する本町は、昔は米どころとして知られ、緑豊かな自然環境に恵まれた地域でありました。
 また、珊瑚礁に囲まれた遠浅の西海岸に面していることから、海の幸にも恵まれるとともに、1917年(T6)には当時の主要交通機関である県営鉄道も那覇から北谷まで開通し交通体系上も重要な地域であり、北谷の嘉手納地域は商業でも栄えた所であります。
 戦後は、太平洋戦争において北谷全域が米軍の上陸地点となったため、豊かな水田地帯は米軍によって埋立てられるとともに、海岸地域及び平坦地の多くが米軍用地として接収されました。
 終戦後は、しばらくは住民の村内への居住が許されませんでしたが、1946年(S21)10月から徐々に居住が許されるようになり、村の復興が行われてまいりました。
 ところが、米軍によって嘉手納飛行場が大巾に拡張、使用されたために、村が北谷地域と嘉手納地域に完全に二分され、交通が発達してない当時としては、これが行政を進める上で種々の障害となり、このため、やむを得ず1948年(S23)12月4日嘉手納地域(約15.04k㎡の区域)が分村、現在の嘉手納町が誕生いたしました。
 ちなみに、1948年の分村時点、北谷村が13.13k㎡で嘉手納村が15.04k㎡と嘉手納の面積が大きいのは、嘉手納地域に公共財産を多く所有していたためで現在も約0.77k㎡(77ha)を嘉手納町内に北谷町は土地を所有しております。
 沖縄は、1972年(S47)5月15日に27年間に亘る米国の異民族支配から祖国への復帰をはたしましたが、その時期を前後として村内の米軍施設用地が徐々に返還されるようになり、県道の整備や民間事業としての山地開発、公有水面埋立造成事業によって宅地造成が行われ、住宅の建設及び公共施設が整備されるようになり、人口増加と、都市化現象が急速に進み、1980年(S55)4月1日には新たな発展をめざし町制を施行いたしました。

3. 社会・経済条件

 本町の人口は、2000年(H12)の国勢調査で25,554人となり、10年前の前々回の1990年(H2)の国勢調査より4,824人が増加しています。
 産業は、戦前は米とサトウキビを中心とした第一次産業が主でありましたが、戦後は典型的な基地依存型経済となりました。
 本町の産業別人口でみますと、第1次産業0.9%、第2次産業18.5%、第3次産業80.5%、その他0.1%となっており、第3次産業に特化した商業・サービス型の構造を持っています。
 基地依存型経済といわれることにつきましては、町土の全面積の約56%(民有地:約5.9k㎡)が今なお米軍施設用地に占められていることによる米兵相手の賃貸住宅の建築、米軍施設用地賃貸料等による収入、近年は雇用者も減少しているものの米軍基地雇用での生活等いろいろな形で日常生活が米軍基地と深い係わりをもって営まれて来たためであります。
 しかし、近年は軍用地返還地の跡利用による土地区画整理事業及び公有水面埋立造成事業等の大型公共事業の進行により、これらの事業が大きく影響し、特に本町西側一帯に商業集積が各段に進むとともに、商業の核の形成、商業圏の拡大が進み、ちなみに、本町商業の売場面積がここ11年間で、約4.4倍(S63:14,283㎡、H11:63,098㎡)に伸びるとともに、2002年(H14)3月にだされた沖縄県商工労働部発行の沖縄県民の買物動向調査報告書によると沖縄県内の市町村における購買人口は、県都那覇市(約41万人)に次ぐ第2位の約14万人であり、本町の人口の約5.3倍(那覇市が約1.37倍)の県民がいかに買回り品を北谷町で購入しているか、幅広い商業圏を持っているかということがわかります。また、町民の地元購買率も約80%と高い水準にあり町民にも定着していると言えるでしょう。

4. 都市づくりの方向

 本町は、戦後町土の全てを米軍用地に接収され、現在も町面積の約56%が米軍用地に占有されております。これらの実情から宅地や市街地の形成は残された比較的 条件の悪い場所において進められてきたという背景をもっています。
 よって本町は、①既成及び新たな市街地の住環境整備、②行政拠点の整備、③新たな都市機能の創出、④商業基盤の整備等の課題をもっております。
 このようななか、本町に一大転機ともなる海岸部の2地区の軍用地(ハンビー飛行場「国が名護市に移設を計画している、普天間飛行場へ一部ハンビーから移転したと言われている」:42.5haとメイ・モスカラー射撃場:22.9ha)が1981年(S56)末に返還になりました。これまで、町民が待望していた当該地区の返還に伴い、土地区画整理事業及び当該地先の公有水面埋立事業等が実施され、他市町村にもあまり例がないような地理的条件の良好な広大な開発用地が出現しました。
 これにより本町は、①快適な住宅都市、②にぎわいのある都市、③健康と楽しみのある都市としてのイメージをもつ都市に生まれ変わる施策を推進することとし、特に西海岸域は1987年(S62)6月に全国12地区九州沖縄では唯一の第1次の建設大臣(現国土交通大臣)によるコースタル・コミュニティ・ゾーンの認定、1997年(H9)4月に厚生省(現厚生労働省)と建設省(現国土交通省)が推進する海と緑の健康地域指定、また1999年(H11)12月には観光振興地域・情報通信産業地域の指定を受け、西海岸一帯の良好な自然的社会的条件を活かし、町民並びに民間企業の英知を結集し、国・県の支援と援助をいただきながら町経済の活性化に向け、更に楽しみと賑わいのあるまちを創出する施策を講じているところであります。

5. 産業振興への取り組み

 本町においては、社会・経済、産業、医療・福祉、教育・文化などに係る町の総合
的な計画として「第三次北谷町振興計画」が策定されています。そして、当該計画の
基本構想においては、本町の将来像を「ニライの都市」(海の彼方の理想郷)と位置づけ、目標を
  ① 自然と調和した安全で快適な都市……健康福祉都市
  ② 明るい未来を育てる都市………………文化教育都市
  ③ 豊かな明日を築く都市…………………産業都市
の三本の柱を定め、その実現を図っていくものとしています。
 特に、ここでは公有水面埋立事業地区での産業振興への取り組みについて紹介しておくこととします。

(1) 美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ計画概要
   北谷町は、町土の約56%が軍用地で占められていることから、その影響で産業振興が阻害され産業構造のひずみ並びに経済活性化に多大な障害をきたしてきました。
   これらの課題を解決するため、1986年(S61)年桑江地先に埋立造成事業を行い、1988年(S63)同事業が完了しました。埋立造成事業は約49haの面積で住宅用地、公園用地等として約38ha、町の産業活性化のためのリゾート用地として約13haの利用計画が策定されました。
   リゾート開発にあたっては、県民の余暇活動の調査や交通アクセスの検討、西海岸に面した地理的優位性、沖縄の歴史的背景等を考慮し、基本計画を策定してきました。
   県民の余暇活動では、ドライブが顕著であり、県内に数多くあるリゾート施設の利用は少数でありました。このことは、これまでのリゾート施設が利用対象者を県外観光客を優先してつくられたものであり、価格面でも割高であることに起因すると考えられます。このことは、県民誰もが気軽に楽しめる場を必要としていることを示しています。
   また、本町は沖縄本島の中部に位置し、沖縄市、宜野湾市に隣接しており、県都那覇市からも約16kmと近く、沖縄県の人口が集中する都市圏の域内で、国道58号が通過する地理的に有利な場所にあり、半径15km圏内に約80万人の人口を抱えていることから都市型のリゾート開発をすべきであると考えました。
   更に、沖縄は琉球国時代、薩摩の侵攻、アメリカ統治下時代という歴史の背景の中で、独自の文化を形成してきました。特に中部においては、軍事基地の存在から沖縄の文化とアメリカの文化が混在し、融合した独特の文化・県民性が培われてきました。このアメリカの文化と融合した独自の文化を生かした特色あるリゾート開発を検討してきました。
   このようなことから、美浜のリゾート開発にあたっては、県民が誰でも気軽に訪れることができ、「安くて、近くて、楽しみのある」空間を創出することを基本に、宿泊ゾーン、ショッピングゾーン、アミューズメントゾーンを配置し、賑いのある都市空間を形成すると同時に当該地域に隣接する運動公園、ビーチ等の利用と相乗効果が発揮できる開発を計画しました。
   しかも、単なる都市空間の創出だけでなく県外観光客にも十分認知され、これまでの沖縄にはない、各ゾーンが一体となった開発及び特色のあるリゾート開発を検討し、リゾート開発プロジェクト名を「美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ」としました。

(2) 美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジの進捗状況(2000年9月現在)
   現在のアメリカンビレッジ構想は、バブル崩壊後の1994年度(H6)に策定され、参加企業の募集が行われ、処分用地面積約12万㎡を13社へ処分し、貸付用地約1万㎡の1社を含めると現在13社が開業し、建設中のホテル用地1社を合わせると14社が立地することになります。
   「美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ」は、現在、8つのスクリーンをもつ映画館(シネマコンプレックス)、大型ショッピングセンター(琉球ジャスコ)、ボウリング場、沖縄のミュージシャンであるリンケンバンドのリーダー照屋林賢が経営するレコーディングスタジオ&ライブハウス、DIYセンター、アメリカンレストラン、アメリカン雑貨の店等が既に立ち上がっています。また、国内で最後の建設になるといわれた、公共の保養施設国民年金センター(運営については、国、県、中部市町村が出資をして国民年金福祉協会を設立し運営しています。理事長は北谷町長。)、シンボルともなる直径50メートル級の大観覧車、3D(立体映像)、外食専門店・アウトレット商品販売を主体としたショッピングアミューズメントモールも開業しております。これらの施設建設にあたっては、アメリカをイメージした外観や演出を行っております。貸付用地には、通信販売業務の受注、金融商品のサービス、インターネットビジネスのサポートを主軸に事業を展開するコールセンターの誘致を行いました。2002年(H14)1月には、24階建、高さ83m(沖縄一高い建物となる予定)、客室280室(800人収容)のコンドミニアム型のリゾートホテルが着工し、2004年(H16)4月開業の予定であります。
   公共施設の整備にあたっては、地区中央には歩道を広くとった30mのシンボルロードを配し、レンガ歩道、ボードウォーク、東屋、照明灯、植栽等でアメリカらしさが溢れ、歩行者が楽しみながら散策でき、各種のイベントに対応できる空間をつくり、これまでの沖縄になかった、特色あるタウンリゾートとして県民及び観光客が集える地域をつくり、沖縄観光の新しい場の形成を目指しています。
   また、隣接する北谷運動公園における「シーポートちゃたんカーニバル」、「シーポート北谷トロピカルトライアスロン」(2001年度の10回大会で、所期の目的が達成されたとして終了した。小中学生を対象とした大会であったため、保護者にも地域を知ってもらう、理解してもらったということではまちづくりに大いに貢献した大会であった。また、参加者から継続の声が多かったが地域の開発により、継続が困難となったことを付け加えておく。)の二大イベントが夏に、春と秋には中日ドラゴンズのキャンプ等が相乗効果となっており、地域の人々の交流、活発なコミュニティづくり、海辺を中心とした賑わいのあるまちづくりが大きく進展しています。
   全企業の計画を集計すると、集客数が年間770万人、総投資額221億円、雇用人員が約1,800人であります。

(3) 課  題
   上記のように、まちづくりが進展するに伴い、事件・事故や交通渋滞が増加していることも報告しておかなければならないでしょう。
   本町としては、予想していなかったのではなく、事件・事故の未然防止を図るため、アメリカンビレッジ内に交番を計画し要請活動も行ってきましたが、警察当局の人員の確保及び設置場所等との関係でなかなか実現しませんでしたが、外国人・県民を問わず事件・事故が大小に関わらず多発したため、本町がアメリカンビレッジ内に建設をしたインキュベート施設に警備派出所が今年設置をされております。
   また、交通渋滞については沖縄の大動脈である国道58号への幅員30mの道路を2本接続し渋滞の緩和等を手がけました。しかし非日常と日常との区分がなく、不夜城と化した地域と酷評する方々も少なくはないのも事実です。
   まちづくりとは、「何のため」「誰のため」と疑問を投げかけられることを少なくする努力、アカウンタビリティ(説明責任)をどう果たすか、その他改善しなければならない課題がまだまだあります。

6. まとめ

 美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジの実現は町民が長い間待ち望んできた夢の実現であり、このことが町の産業振興及びこれからの軍用地跡利用に向けた大きな起爆剤となっております。
 この事業は、民間活力の導入により町の活性化を推進しようとするものであります。町の役割としては、当該事業区域内のインフラ整備を実施し、参加企業が円滑に事業運営が推進できるよう努めると同時に、町民及び利用者が安全で快適に活用できる空間を創出することであります。具体的には、国道からの進入車線の拡幅、シンボルロード(W=30m)、修景施設、公共駐車場(1,500台収容:維持経費は立地企業より分担金を徴収。)等の整備であり、これらの公共インフラについては、1996年度(H8)から新ふるさとづくり事業により実施し、2001年度完了しております。前後しますが、企業への売却費用は、埋立事業に要した経費プラス前述の公共インフラ費用を想定をし、鑑定価格と比較(鑑定評価を上回ることがないよう。)を行い単価は設定されております。よって、新ふるさとづくり事業への町負担金については、一般財源の充当ではなく、土地処分金で賄うこととして実施をし、計画どおり推進をされてきました。
 このアメリカンビレッジ構想の大きな目的は、北谷町の産業振興、雇用の場の確保及び財政基盤の確立であり、この初期の目的を達成することにより、町民の種々のニーズに応えていくのがねらいであります。
 そのためには、アメリカンビレッジをそして関連整備計画の推進によって築き上げられた都市基盤の利活用をいかにして継続発展させていくかであります。まちづくりは、他の市町村においても多くのプロジェクトが推進されており、先進事例に学び追い越していくのが常であり、これらのプロジェクトに左右されない安定し、成熟したまちの基盤を総合的視点に立って形づくることが求められています。
 また、本事業に参加する企業が本事業の目的を十分認識し、事業のコンセプトを遵守し、継続的に運営することが肝要であり、進出企業との認識あわせを常に行うようにしているところであります。
 そして、それを実行していくには地域の独自性(将来ビジョン:中期スパンで)を見据え、町民の理解と民活を取り入れた行政運営というのが不可欠であると思慮されます。
 現在、西海岸(アメリカンビレッジ)に隣接した内陸部の米軍用地の返還予定(キャンプ桑江が2002年度(現役場庁舎を含む:返還促進の意味合いもあり基地内に1998年庁舎を建設)約40haと2007年(米海軍病院含む)約58haでほぼ全面返還)のまちづくりが計画されております。この返還により基地で分断され、県道2路線でしかつながっていなかった東部(内陸部)と西部(海岸域)がようやく一体となり、連担したまちが実現しようとしています。このように当該返還予定地区は、本町の都市核を形成させる重要な拠点であり、返還後の跡地利用により、①豊かで住み良い住環境の創出、②都市の成長を引き出す都市基盤の整備、③みんなでつくる活力ある都市づくりの都市整備が継続され、「夢」と「可能性」を具現するため、今後も民活はもとより町民一体となって取り組み本来の「基地のない平和な沖縄」を創造していきたいと思っています。