【自主レポート】

小麦を作ってパン工房「麦麦」を創る

広島県本部/三良坂町職員労働組合 古野 英文

1. どうしよう? 特産品開発

 農政課に配属の当初は、命じられるまま、ほ場整備の残務整理や地元償還金の事務など、それはそれで忙しく暮らしていました。小さな町なので私の家が商店で農業にまったく関係ない人間であることは周知の事実。「農業を知らんのに何が農政課や~」といったこともちらほら耳にしながらがんばっていました。
 さて、「三良坂町特産開発推進協議会」という組織が農政課にありました。「農産物の加工所をつくろう」「そこで特産品の開発をしよう」という目的をもった組織です。担当者としては条件整備につとめ、いい補助金があればのっかっていきましょうということでした。この時点までは、農産物加工所の設置については住民の要求でもあることですし、普通といえば普通の事業でした。
 ところで、従来、本作といえばお米です。転作作物としてはじめて大豆や小豆という名前があがってきます。昔ながらの「農業基本法」がありましたが、日本の食糧自給率を高めることなどを目標にこの法律も1999年に「食料・農業・農村基本法」に改められました。米以外も本作として位置づけ転作という概念をなくそうというものです。飼料稲・小麦の作付けなど、国や県の新しい方針に沿って三良坂町の農業政策の転換を図らなければいけないということです。農協さんも含め、素直に「どうしよう?」と考えたのでした。
 検討の中身といっても「なんと、昔は小麦をどこにも作りようったよのう」から始まり、「小麦の作付けを推進しよう思うたら、農業カレンダーを別に作ったげにゃぁいけんようのう」「小麦じゃいうても、いろいろ種類があるんじゃろうにのう」といった程度でした。
 そんな中、「どうせ小麦を作るんじゃったら、パンにして売ろうやぁ」。結局この一言ですべてがはじまりました。農協の当時の支店長さんの一言でした。

2. 新山村振興等農林漁業特別対策事業

 農産物加工所を作るための補助金は当時の「山村振興等農林漁業特別対策事業」に求めました。ソフト作りからハード整備に至るまで4年間で4億円の事業をこなしなさいというものです(最終的には1億4千万円になりましたが…)。間なしに、この補助事業の名前に「新」という言葉がついて「新山村振興等農林漁業特別対策事業」になりました。今では農業関連のあらゆる補助金がそうですが、費用対効果をうたい文句に「業」として成立するものでないと採択になりませんというものです。
 話を戻します。この補助事業の計画作りを手伝ってもらっていたコンサルタントに、さっそく「手作りパン」を計画に位置づけるよう指示しました。さすがにコンサルタント、イメージ図と収支計画がすぐに出来上がりました。もちろんそこには「『業』として成立するにはおいしいパンでないとダメですよ」という注がついていました。
 「突拍子もないことだ」、「なんでこんな田舎で、しかも不景気風に追い立てられているというのに…」、「今まで手作りパンという特産を三良坂町で取り組んでいる人がいればまだしも、どこから出てきた話じゃ」、「手作りパン? 聞いてないよ、そんな話」…。
 今だから言えますが、私自身確信を持っていたわけではありません。関係者に計画の説明をしながら、皆さんが口々に出す「こんなんで、ええんかいのう?」という言葉を私自身も言い出しそうになるのをずっとこらえていました。「できればどこかへ逃げてしまいたい…」、そんな気持ちが毎日うかんでいました。
 でも、農業の担い手は高齢化するいっぽうで、手のかかる作物の作付けを進めるには限界があります。また、三良坂にも小さな商店街がありますが、そこにある商店が一軒また一軒と閉まっていくのをながめながら、これをなんとかする特効薬も見つかりません。「ダメもとでも、何か一石を投じることで、そこから相乗効果が生まれないだろうか?」という思いがあるだけでした。
 計画した農産物加工所、その一角に手作りパン工房を設け、機械器具なども補助金で整備するのです。今から店を持とうとする人からすれば、こんなおいしい話はまたとないことです。三良坂の特産品で営業ベースに近い状態のものにジャム加工グループもありました。おいしいパンを作ってくれる人さえいれば、このグループのジャムを仕入れて販売するだけでもなんとかなるのでは…。ほんの少しの望みでしたが、いつの間にか後ずさりしようとする私の気持ちはなくなっていました。

3. 神戸でパン屋さんを探す

 人さえいればという気持ちで新聞、ホームページ、知人、友人、そして親戚、はたまた専門学校の卒業生や趣味の世界の手作りパン教室、いたるところへアプローチしました。そのなかで最も効果のあったのが神戸新聞にとりあげてもらったことです。
 先ほど少しふれたコンサルタントが「パンといえば神戸でしょ。町のネタを神戸新聞にいる知人に取り上げてもらいましょう」と言うのです。わらにもすがりたい気持ちで毎日を送っていた私にとっては、少しでも望みがあればアプローチしたい気持ちで一杯でしたのでそれに乗りました。
 余談ですが、私自身はその話があったときに直ぐにでも神戸に行こうと思いましたが、そこは公務員のはしくれです。直属の上司に出張命令をもらわないと行動を起こせません。「神戸新聞でその情報を流すことで、確実に探し求める人が出てくるのであれば出張命令も出しやすいんじゃがのう…」と語尾の曖昧な上司。上司の言うのもわかるので、黙って1日において、年休をとって神戸に飛んでいきました。
 余談の余談ではありますが、神戸に向かう新幹線に携帯電話を忘れてしまい、もう少しで鉄道公安のお世話になるところでした。一生忘れることのできない1日におまけまでつけてしまいました。おまけといえば、その日、ひとりで食べた神戸牛もまた格別でした。折角と思い奮発しました。一方的ではありますが、今では神戸と聞くと非常に親しみを覚えています。
 さすがに、神戸新聞の効果は大きく、色々な方からの問い合わせがありました。いわゆるアイターン希望者、就職希望者、転職希望者、パンの研究開発指導員、手作りパン経営者…。たくさんの人と出会うこともできました。そのなかに、現在の三良坂パン工房「麦麦」のオーナーシェフ、野島さんもいたのです。彼のことは少しおいといて、小麦について少しお話したいと思います。

4. 小麦についての試行錯誤

 小麦には相当な種類があります。私もよくわかりません。でも農政課には、専門員の惣中さんが居られます。「どうにかする」と言われたその言葉を信じて疑うこともなく事をすすめました。でもパンの生成に適した小麦、麺類に適した小麦、飼料用の小麦など、その種類の多さといったら桁はずれでした。自分の無知を思い知らされるばかりです。
 しかも、何がショックだったかといえば、三良坂特産をうたう以上、地元で収穫された小麦でないといけないのですが、パンに適した小麦というのは梅雨時期がネックとなり、北海道以外の日本では作付けに適さないというのです。でも適さないとはいえ、品種改良も進められているし、あの大手のタカキベーカリーでさえ、地元産小麦にこだわり同じ広島の県北で作付けもふくめ研究をすすめているのです。
 何をどう理解すればいいのかわからなくなってきました。混乱状態に陥ることしばしばです。いつしか私は、自分に有利で有効な情報にだけ耳を傾け、不利な情報は聞き流すようになっていました。もちろん専門員の惣中さんにはとても感謝しています。
 ある日、新潟の方で米を粉にしてパンにするという話をキャッチしました。余談ですが、「米の粉で作ったパンはどんなもんかね?」とタカキベーカリーのKさんに尋ねたところ、「おいしいはずないじゃない。邪道ですよ。やっぱりパンは小麦です」。そんな会話の後、1ヵ月もたっていないのに、タカキベーカリーから米からできた食パンが発売されたのでした。「ええかげんにせぇよ」と思いました。「小麦がダメになったら今度は『米』よ。パンがダメならうどんよ」と、もう「やけくそ」気味なところもありましたので、タカキベーカリーの米パン情報にもめげず、急遽新潟に出張。米の粉(ライスパウダー)にも「つば」を付けられるものならをつけてやろうとも思いました。三良坂産小麦がダメなら、三良坂産米でいくのです。少々のことではあきらめませんでした。

5. 予算編成での敗北、でも「捨てる神あれば拾う神あり」

 ところで、麦の流通についてご存知ですか。広島県には小麦を消費・加工できる業者さんは4つしかありません。実需者といいます。S組合・T製粉・Y製粉、そして陽和製粉とあります。たとえ、三良坂で収穫された小麦でも価格補償制度にのって農家に栽培してもらうとなると、必ずその業者さんの了解と買い上げが必要なのです。勝手に加工したりすることが実質できないのです。とうとうお手上げかとも思いました。
 だったら「製粉機も導入して特産開発のベースをつくり、三良坂産パンではなくて、その前段で小麦粉としても販売すればいいじゃないか」と考えました。この製粉機械の導入については、県からの反対も相当なものでした。時にはやさしい言葉で、時には語気を強め、やり取りを続けました。本庁の財政部局にも行きました。
 なんとか説得し、農協さんとの了解をとりつけるところまでこぎつけることができました。「小麦粉」の流れについてシナリオもつくりました。専門員の惣中さんは収支計画をたてるために、いつの間にか、小麦粉の値段を調べるため、フードセンターめぐりまでして情報収集に奔走してくれていました。
 でも、結局10万円~20万円レベルの町費の調整がつかず、予算編成に敗れました。当時、当初予算がダメでも6月補正とういう気持ちは消えていませんでしたが、捨てる神あれば拾う神ありです。小麦の作付けにあたって、展示ほ場で色々な品種を作付け試験していた小麦が効を奏したのです。その展示ほ場でできた小麦が、先ほどの陽和製粉の条件にかなったのです。もちろん、丹精込めて作る野島さんのパンにも魅力を感じてもらったのだと思います。「三良坂産小麦を一手に製粉してあげましょう」ということになったのでした。「やっと三良坂産パンができる!」と思いました。

6. 「麦麦」のオーナーシェフ、野島さんについて

 「麦麦」のオーナーシェフ、野島さんとの出会いは2000年の夏でした。岡山で新しい店の立ち上げをアシストしているとのことでした。何度か電話で話していたので、この人こそはという思いがあって岡山まで面会に行きました。
 ところが情報というものは相当行き違いがあるもので、彼は町が経営するパン屋さんに雇用されるものと思っていました。私たちの方は、「用意はするが、あとはあなたの頑張り如何によります」というのですから、いっぺんにその場の空気が淀んできました。説明してなんとか誤解はとけたものの、さてどうするか、答えはすぐ出ません。ましてや、「どんなパンがお好みですか?」と聞かれても、「パンは好きです」としか応えられない私ですから、話がかみ合いません。逆に野島さんは三良坂の空気をごぞんじありません。「結論を出す前にぜひ三良坂に来てみてください」というのが精一杯でした。
 その秋、農協を会場に行なわれた「三良坂おたのしみ祭り」に参加してもらいました。「僕が焼くパンを三良坂の人たちに受け入れてもらえるかどうかもわからないのでやってみる」という野島さん。野島さんの人生を変えてしまうであろう一大事に、さすがに私も自重を覚えた時期です。「いったい私は、いや自治体は、彼の生活をどこまで補償できるのか?」「私自身、まわりのことを考えず闇雲に動いていただけなのではないか?」「もし失敗したら彼はどうなるのか?」…。眠りの浅い毎日が続きました。えも言われない不安を彼に見せることはできませんし、調子のいい話ばかりもできません。彼の前向きで明るい性格と負けん気が私を助けてくれました。
 2001年の春、パン工房「麦麦」のオープンと彼の家族の引越しがいっしょの時期になってしまいました。オープンを控え野島さんには1週間ぐらいでしたが、私の家に寝泊りしてもらいました。野島さんのご家族のことを思えば私の家族の負担なんかとるにたりませんが、実際、私の家族にも多大な協力を強いることになりました。

7. エピローグ

 この4月、「三良坂パン工房『麦麦』」がオープンして1年を迎えました。毎日のように顔を突き合わせていた野島さんとも、今ではめったに顔をみることがありません。車ですれ違うとき、手を振るぐらいです。でも、私は彼に感謝の気持ちでいっぱいですし、彼の勇気に感服するばかりです。
 つい先日、庄原の喫茶店で聞くともなしに隣のテーブルから「みらさかの麦麦…」という言葉が聞こえたとき、野島さんが笑いながら小麦粉をこねている姿が目に浮かびうれしく思いました。また、彼が住んでいる常会でご不幸があったとき、いかにも着慣れない喪服姿の彼を見かけた時、おかしくもあり、うれしくもありました。彼の今後の活躍に大いに期待して私のレポートとします。

【参考資料】

水田計
生産調整概要(110ha  小麦1ha分を「麦麦」で消費)
大豆
飼料
小麦
小豆
アスパラ
地力増進
保全管理
その他
330ha
220ha
14ha
14ha
6ha
6ha
5ha
15ha
10ha
40ha

新山村振興等農林漁業特別対策事業(基本型)1999~2002の概要
137,340千円
山村等活性化ビジョンの作成 ビジョン作成一式
7,566千円
農林水産物処理加工施設 1棟196㎡(パン工房含む)
58,230千円
地域資源活用起業化施設 陶芸学習舎1棟116㎡
36,350千円
体験農園施設 区画整理22区画・管理棟68㎡
36,194千円