【代表レポート】

市民が創る平和運動~高校生の平和活動~
長崎の高校生平和大使と高校生1万人署名活動の報告

長崎県本部/核兵器の廃絶を願い、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク

1. はじめに

 被爆57年、被爆者の高齢化が進み、被爆体験・戦争体験の風化が懸念されるようになってきた。近年、被爆地・長崎における平和運動の場においても参加者の高齢化が指摘されるようになってきた。長崎におけるほとんどの平和運動にかかわる団体が参加して市民参加型の象徴的な平和集会として「ながさき平和大集会」が14年間続けられてきたが、若い層の参加が少なく高年齢化などにより参加者が少なくなる傾向が続き、集会そのものの意義が問われるようになってきていた。
 市民の平和運動離れ、若者の平和活動離れという状況の中で、1998年より開始された「高校生平和大使」の派遣とその中から生まれた「高校生1万人署名活動」は、長崎の平和運動に画期的な変容をもたらした。高校生の活動に引っ張られるように、平和運動は広まりと深まりを見せている。これは、活発な高校生の平和活動とそれを支えてきた市民が創る活動についての報告である。

2. 高校生平和大使のはじまり

 インド・パキスタンの核実験を契機にして、ながさき平和大集会の実行委員会を母体に「核兵器の廃絶を願い、全ての核実験に反対するネットワーク」(通称;反核ネットワーク)がつくられた。
 その反核ネットワークにより、被爆地の願いを世界に伝えるために「高校生平和大使」を国連に派遣することにした。当初は、被爆者の声を国連に届けたらどうかということで検討されたが、若い世代にその役を託そうという発想から「高校生平和大使」が生まれた。
 初めての試みであることや派遣費用はすべて市民のカンパで行うというやり方で、市民的な理解を十分に得ることができなかったが公募した結果、選考された2人の高校生が、1998年10月に第1回の「高校生平和大使」としてニューヨークの国連本部を訪問することとなった。派遣された2人の高校生は国連に行き、ダナパラ軍縮担当事務次長に英語でスピーチを行い「被爆地の願い」を伝えた。2人の真剣な言動は共感をよび、大きな成果を得ることができた。
 第2回の「高校生平和大使」は、第1回の成功のもとに公募された。第1回の応募者は14人にすぎなかったが、第2回目には30人あまりの応募があった。さらには、広島にも呼びかけ、広島でも30人ほどの応募者があった。その結果、長崎2人、広島1人の3人の高校生が第2回高校生平和大使として選ばれた。1999年、核兵器廃絶と核実験中止を求める市民6万人余の署名とともに国連本部を再訪した。そして、国連に核兵器廃絶の努力を促した。
 こうして、高校生平和大使の活動は市民の共感を得るようになってきた。第3回高校生平和大使には、40名の応募があった。第3回「高校生平和大使」に選ばれた2人の高校生は、今度は、軍縮本部のあるジュネーブを訪問することとなった。2000年8月に第3回高校生平和大使は、国連ジュネーブ本部を訪れ軍縮担当者に「ナガサキの願い」を訴えた。国連訪問の帰路、オランダ、ドイツ、ポーランドなどを訪問し、交流するとともに、アウシュビッツ収容所、アンネ・フランクの家、ベルリンの壁などの見学をした。この取り組みにより、若い世代が平和について考える機会ができ、若い世代の平和活動に大きな影響を与えることができてきた。

3. 高校生1万人署名活動について

 その第3回の平和大使の2人は、帰国後、自分たちの成果を広めることを目的に「核兵器廃絶と世界平和の実現を求める高校生1万人署名活動」を始めた。この高校生1万人署名活動は、高校生の署名を「高校生平和大使」に託し国連欧州本部に届けようという計画である。実行委員会は《核兵器の廃絶と平和な世界の実現をめざす「高校生1万人署名活動」実行委員会》(略称;「高校生1万人署名」実行委員会)と名づけられた。
 本格的には3月の卒業式から卒業生に卒業記念に署名してもらう取り組みから始まり、4月から新1年生から新3年生までの署名に取り組んだ。高校生平和大使の呼びかけに応じた高校生は、最初は10名程度だった。
 しかも、当初はなかなか署名が集まらず苦労したが、次第に活動が広がり、実行委員会に参加する高校生は20高校50人近くになった。また、長崎市をはじめとしてたくさんの高校の生徒が参加するようになり、壱岐や五島などの離島の高校などでは生徒会が取り組んでくれるところも出て来た。実行委員は自分の高校での署名に取り組む一方、街頭での署名活動にも取り組み、長崎市内の繁華街や平和公園、佐世保、諫早、大村、五島など街頭署名も行った。
 その結果、予想をはるかに上回る署名を得ることができた。(高校生で18,000人近く、一般が10,000人あまり)目標は、夏休みを前に達成したが、夏休みには県内各地での街頭署名、広島での署名活動にも取り組み、運動は多いに盛り上がった。会には、約20校50人以上の高校生が参加した。そして、県内外に大きな反響を呼ぶこととなった。
 そして、2001年8月11日に感動的な集約を行い、署名は8月24日に第4回高校生平和大使によって国連に提出された。
 第4回の高校生平和大使は、国連で感動的なスピーチを行い、ナガサキの声を国連に届けた。帰路、オランダ・アムステルフェーン市を訪問し、特別市議会で演説するとともにオランダの高校生とも意見交換を行ったりした。

4. 第4回高校生平和大使の帰国後の挫折と再出発

 昨年の第3回の高校生平和大使は高校生1万人署名活動につなげた。帰国後の活動が大切なことはいうまでもない。第4回高校生平和大使や高校生1万人署名活動実行委員会のメンバーも「高校生1万人署名活動を全国に広げよう」という意識はありその準備を相談していた。しかし、そのような中「9・11テロ」という事態が起こりその後の「報復戦争」が始まった。高校生は「わたしたちのこれまでの活動は何だったのか。」といった無力感におそわれた。
 そういった中から、高校生は「平和のために自分たちにできることをやろう。」と考えた。最初の取り組みは、高校生にアンケートをとることから始めた。テロや報復戦争についての高校生の意識は明白だった。「どんな理由があろうとも戦争はいけない。戦争をなくす努力をしなければならない。」というアンケートの結果に、高校生1万人署名活動のメンバーは勇気を得て、活動を再開することとなった。
 高校生たちは「核兵器の廃絶だけではない、戦争をなくすという運動にもつなげよう」という意識から、「高校生討論集会」を開いた。また、核兵器の廃絶とともに戦争をなくそうといった趣旨の「新高校生1万人署名活動」を開始していった。新高校生1万人署名活動では、9・11以後の状況をふまえて「わたしたちは、戦争も核兵器もない平和な世界の実現を求めます」といった主旨で、3つのスローガンを掲げた。すなわち「①わたしたちは、1日も早い核兵器の廃絶をもとめます。②わたしたちは、世界中の人々が平和な生活ができるよう求めます。③わたしたちは、戦争のない世界の実現に向けて、国連にいっそうの努力を求めます。」である。
 署名活動を提起したものの、アフガニスタン戦争をはじめとする様々な武力の連鎖に高校生達は「何とかしなければ」との思いが強まっていった。そして、「戦争で犠牲になるのは子ども達ではないのか、わたしたちにできることはないのか。」とし、「ミサイルよりも鉛筆を」というスローガンが考えられた。当初は、募金を集めて、テロの犠牲者の子どもや、アフガニスタンの子どもへの支援を行った。そして、5月からは、鉛筆や文房具を集めて、アフガニスタンやアジアの子ども達に贈る取り組みを始めた。学校や街頭で集めた鉛筆は3万本余り、ノートは5千冊も集まった。小学校では保健室に鉛筆集め箱が置かれたり、中学生の手伝いも増えてきた。
 しかし、反響の大きさと共に、多くの課題や困難にも直面した。使えないノートや外国に贈るのに漢字練習帳がたくさん集まったり、輸送費の問題や受け入れ先との折衝などなど。
 鉛筆はペシャワール会に3,000本を託すこととした。そして、残りはフィリピンのスラムの子ども達に贈ることとなった。しかし、あまりに大量すぎて莫大な輸送費がかかることも分かった。そこで、この荷物は大手運送会社のS社が引き受けてくれることになった。また、実際の状況を知るために、高校生のメンバーが直接、フィリピンに鉛筆8,000本を持参することとなった。
 さて、このような取り組みが広がりを見せる中で、2回目となる高校生1万人署名活動は、なかなか署名が集まらないという事態になった。「数にこだわりすぎてはいないか」という反省もあったが、昨年の2万8千人を超えたいという目標にほど遠い現実に焦りがましていった。しかし、夏休みになって高校生達は灼熱の毎週、土曜、日曜に街頭に立ったり、五島や広島にも出かけて懸命の署名活動を行った。そして、懸命な高校生の姿勢は市民の支持を得て、飛躍的に署名は増えていき、最終的には4万人をこえていった。また、オランダ訪問から生まれた交流から、オランダの高校生を長崎に招待したことから、1万人がオランダも取り組まれることにつながっていった。オランダでの署名は1,200人になったという。

5. 高校生、市民、全国の反応

 長崎ではこの高校生平和大使や高校生1万人署名活動の意味は大きく、不毛といわれていた高校での平和教育の活性化をもたらすに至った。被爆地・長崎では、小学校、中学校を通して、平和教育には熱心に取り組まれている。ところが、高校になると、一部の学校を除いて「平和教育が不毛」といわれていた。例えば、8月9日の原爆登校日の実施は小・中学校では、ほぼ100%であったが、高校での実施率は低かった。(ほとんど実施していなかった。) 
 ところが、高校生平和大使の活動が共感を呼び、大きな盛り上がりをみせるや、8・9登校日を実施する高校が増え、今では100%に近づくまでになっている。
 最初のころは、被爆者の方から「原爆も戦争も体験していない高校生に何がわかるか。」とか、学校での署名に難色を示され、校門の外で署名を取るとか、さまざまな苦労があった。しかし、高校生平和大使の取り組みや高校生1万人署名活動の地道な取り組みは、やがて市民の共感をよぶようになり、カンパ活動や署名活動中には、多くの知らない人から、「暑いだろう、これ飲んでがんばって!」と飲料水の差し入れがあったりするようになってきた。
 地元の報道の支援や全国的な報道もあって、反響が出て来た。原水禁大会などでも、高校生の訴えは大きな共感をよんだ。長崎の「平和宣言」にもとりあげられるほどになった。

6. 今年の取り組み

 第5回高校生平和大使は50人以上の応募があり、2人の高校生が選ばれた。選ばれるのは2人だけだが、その他の応募者は2人を応援するために活動を行っている。今回、8月22日から30日まで国連欧州本部を訪問すると共に、帰路、ローマ法王に謁見し、世界の平和の実現と核兵器の廃絶を訴える。さらに、オランダの高校生も国連で合流する。

7. 高校生の平和活動を支える市民の運動

 高校生平和大使は、市民運動から生まれた。しかし、育っていったのは、まさに高校生の自主的な取り組みの結果だった。もちろん、高校生平和大使の派遣費用はじめとして、高校生だけの力だけでできるわけではない。
 高校生の活動を支える市民運動や労働組合の活動の絶妙のハーモニーのたまものであるといえる。高校生のこのような平和活動を、わたしたちはどう育てていくかについて、高校生平和大使や高校生1万人署名活動の成功は多くの示唆を与えてくれた。
 それは、「大人がいかに口を出さないで我慢できるか」にかかっている。平和運動にかかわってきた大人は経験も知識も豊富である。信念も強い。その大人たちが口出しすれば、高校生は黙ってしまうしかない。
 ある時の集会で、高校生平和宣言を作成することになった。原案を作って、高校生に示したところ「変えてもいいですか。」との答えが返ってきた。その結果、できあがった平和宣言文には、見事に1行1字も大人の言葉はなかった。「人の創った文章を読むだけ。」の従来の大人の下請け活動を見事に拒否した瞬間だった。それから、わたしたちは、高校生の発表の原稿はほとんどチェックしないことにした。もちろん、相談を受ければ相談には乗っているが。

8. 終わりに~市民が創る平和運動~

 長崎の高校生の平和活動は市民が創った。しかし、育ったのは、高校生自らの力だった。昨年の高校生1万人署名活動のメンバーは、大学生になって「スタッフ」として高校生の活動を支える側になっている。確実に育っている若い世代の平和活動、「市民で創る」といった視点で見守っていきたいものである。
 よく若い世代は、平和活動に無関心であるとか、政治に興味を示さないといわれる。しかし、長崎の高校生を見る限り、けして無関心でないと言える。今まで、きっかけがなかっただけではないだろうか。彼らを活動に駆り立てるものは何だろうか。もちろん、他校の高校生と知り合える楽しさもあるだろう。クラブ活動のようだと思うこともある。報道などで取り上げられることも意欲につながることかもしれない。しかし、何よりも、駆り立てるものは、「長崎の子」としての自覚ではないかと思う。長崎で生まれたものの責務と重さと期待を背負いながら高校生の平和活動は根付いてきたのではないかと思っている。
 ともあれ様々な問題を提起しながら、長崎の高校生の平和活動が今日も繰り広げられている。