【自主レポート】

多文化共生のまちに「つくる会」教科書は似合わない

東京都本部/荒川区職員労働組合・書記長 白石  孝

1. 僅差で「つくる会」教科書を採択せず

 2001年8月10日の夜、教育委員会の終了を待っていた私たちに次のような文書が配られた。
 「社会(歴史的分野)の採決結果。東京書籍2、扶桑社2。同数により、委員長職務代理者の判断で、東京書籍に決定」。公民的分野も同様。
 「荒川区立学校(中学校)教科用図書採択についての採択結果と主な意見」と題するA4判1枚の文書である。他に「教育委員会のコメント」「区立学校使用教科用図書採択一覧」「区立学校使用教科用図書採択における経緯」というものもある。
 この日の模様を翌8月11日朝刊各紙が報道している。その中から『東京新聞』の記事を紹介しよう。
(リード文) 荒川区教育委員会は10日開いた定例会で、来年度から区立中学校で使う教科書に、歴史、公民ともに東京書籍を採用することを決めた。同区では論議を呼んでいる「新しい歴史教科書をつくる会」主導の歴史、公民教科書が採択される可能性があるとして注目され、「採択反対」を訴える市民団体などが詰めかけたが、委員4人の採決の結果、不採択となった。
(本  文) 委員会は非公開で、終了後に結果を発表した。教育委員長の上野和彦氏は社会科教科書執筆者のため、審議から外れた。歴史、公民ともに、区教育長の石橋伸一郎氏と宮下達也氏(註:歯科医師)が扶桑社を、千石保氏(日本青少年研究所)と伊豆山建夫氏(開成中・高校長)が東京書籍をそれぞれ推し、同数だったため、委員長職務代理者の千石氏の判断で東京書籍に決定した。(後略)
 私たちは8月10日当日、昼休みを使って区役所脇の公園で集会を開き、そして区役所を包囲する「人間の鎖」を実行した。この行動は荒川区労評(地区労)と区職労とが共同で呼びかけ、教科書問題に取り組んできたすべてのグループ、個人およそ400人が参加した。他の地域からの応援者はほとんどなく、自力での数である。都教組荒川支部、東京教組、部落解放同盟、朝鮮総連、韓統連、牧師、大学教授、社民党、共産党などが次々にあいさつし、鎖はほぼ庁舎を一周した。
 このように区内で関心を持つすべての団体、個人が「つくる会教科書を採択させない」の一点で共同行動をとったことが大きな力となり、教育委員への圧力をはね返す力となった。しかし、共同行動はこれにとどまらなかった。朝日新聞は特集「どうする教科書~採択を終えて」(8月19日付)で荒川区の様子を次のように伝えている。
(本  文) 東京の下町・荒川区の荒川仲町通り商店街。狭い路地に魚屋、八百屋などが軒を並べる。商店街理事長の利根川昌弘さんは、5月の区長選で、自民党推薦で初当選した区長の選対幹部も努めた実力者だ。その利根川さんが7月19日、地域に多く住む在日韓国・朝鮮人の代表者らとともに教育長をたずねた。(略)「私たちは助け合って生きてきた。在日の人たちの嫌がることはしないでほしい」(後略)

2. 事の始まり

 2001年の春頃から「新しい歴史教科書をつくる会」が主導、扶桑社から発売する中学の歴史、公民教科書のことは話題に上がっていたが、まさか荒川区もその渦に巻き込まれることはない、と高をくくっていた。ところが、5月18日に区教育委員会が「採択要綱」を制定し、そして自民党公認の区長が誕生したあたりになると、どこからともなく「荒川でつくる会教科書の動きがあるよ」との声が聞こえ始めた。地域では、その不安の声を背景にふたつの市民グループが発足、6月5日に解放同盟などのメンバーからなる「教科書を区民で考える会」が教育委員会に対して公開質問状を提出した。それに続き、教科書展示会場で実際に教科書を見比べようと呼びかけを行った。6月22日には「どうする教科書! 6・22区民集会」を開催、区職労からも多数参加、代表発言を行った。
 そしてついに「つくる会」会長の西尾幹二氏を講師とする「荒川教育フォーラム」が6月29日に開催された。世話人は区内の財界大物と私立学校理事長をはじめ区内企業の社長が軒並み名前を連ね、自民党議員団も加わった。案内には「歴史教科書を比較検討し、より良い教科書を子供達に供するにはどうしたら良いか、多くの区民の皆様と議論するための会を開催」と謳い、単なる講演会でなく、教科書採択へ向けての動きを示唆した。
 私たちの間で一気に危機感が高まった。いよいよ具体的なたたかいになる、と意を決し、抗議とかアピールだけのパフォーマンスではなく、本当に阻止するための運動を開始した。区教育委員は5人、この段階での帰趨は不明、新区長就任に伴う人事異動で教育長が助役になり、後任にはかつて区に課長として赴任していた都の管理職を区長が招き寄せ、なおさら状況は混沌としていった。区長は就任後も自民党荒川支部の支部長を務めるという今では稀なスタンスをとり、大方の見方では現行教科書に批判的と言われた。区議会勢力も自民・保守党系で過半数を超えるという保守王国である。このまま行けば数少ない採択自治体への道を歩むのは必至であった。

3. すべての良識派を結集

 いわゆる「革新」系だけの運動ではこの重大な局面を乗り切ることはできない。教育委員と直に話せるような人はいないか、区長とパイプのある人はいないか、保守系や公明党系はどうか、などの情報交換を進めることにした。また、学者や平和運動家などで構成するもう1つの市民団体「子どもに渡せますか? あぶない教科書荒川ネット」にも団体参加し、7月4日に集会を開催した。
 一方、区立小・中学校全校の保護者有志が連名で「要望書」を7月19日に提出、教育委員会との話し合いを持った。これには私たちとの協力関係にある市民派無所属議員だけでなく公明党議員が同席している。保護者有志の名前は全小中学校から出されたが、公明党支持者も含め、多くの政党関係者や支持者の名前がわかるように水面下での調整にかなりなエネルギーを使った。また、公明党は8月3日、区長に対して「要望書」を提出した。そこでは「アジア近隣諸国との友好・親善を進めるうえで、深刻な外交問題」「悪意の歴史認識が、未だ根深く存在する事に憂慮」「教科書については、過去の歴史を否定するようなことがあってはならない」と指摘し、区長から教育委員会に働きかけてほしいという内容だ。
 同日、朝鮮総連と韓国居留民団の委員長・団長が手を携えて申し入れを行った。荒川区は東日本で屈指の在日韓国・朝鮮人居住地区である。日本人の住民登録人口17万人強に対して外国人登録数約1万人、そのうち韓国・朝鮮籍が6千人を超える。その他日本国籍だが帰化したり国際結婚で生まれた子どもたちを入れると1万人程度が在日といえる。両民族団体の力は相当なものだ。南北首脳会談と南北共同声明という追い風があったとはいえ、この間両団体は意識的に交流を進め、朝鮮総連の新春のつどいや「8・15民族同胞大夜会」などに民団の会長などが出席するなど、積極的に自主的交流を進めてきた。だからこそ、教科書問題での共同行動も実現した。
 区内の2つの市民グループも積極的に「公正な採択を求める」行動にとりかかった。いずれも区職労は事務局や運営などに関わり、運動を支える役割を果たした。「教科書を区民で考える会」は、毎日地区役所や最寄り駅での街頭宣伝とデモを展開、7月25日に教育長あてに「要請書」を提出。「あぶない教科書荒川ネット」のメンバーが中心になって「荒川区民共同アピール」運動を提起、8月6日に合同記者会見を行うとともに、チラシを全戸配布した。その配布の何割かは新聞折込を利用したが、一部の販売店は折込を拒否したり、内容の部分訂正を求めてくるなど、過剰反応が見られ、荒川区内は騒然とした状況になった。この区民宣伝にも区職労は大きな力を発揮した。
 さらに8月8日、地区労である荒川区労評(東水労から議長、区職労から顧問・会計を派遣)が要望書を携えて教育長と面談、区職労も同日要望書を提出した。いよいよ採択まで2日と迫った。あとは、教育委員自身の判断に委ねるしかない。私たちは可能な限り、教育委員への接触を試みた。この段階での読みは五分五分、委員長は執筆者なので除外されるからまったく予断を許さない状況になっていた。

4. 共生をめざす地域の取り組み

 在日韓国・朝鮮人が多数居住している荒川区であるからこそ成立した運動だったと思う。ニューカマーもたくさん居住し、いまや「リトルソウル」的雰囲気をかもし出している三河島界隈、その中心商店街でお店を営む商店主は、日頃からのお付き合いを大切にしたからこそ、区長と延々話し込んだ。その商店街や荒川区に共生化の種をまいたのが実は私たちの運動である。1987年、ソウルオリンピックを目前にした韓国で、衰退していた朝鮮伝統音楽を蘇らせた「キム・ドクス」率いる「サムルノリ」荒川公演を在日と日本人合同の実行委員会が成功させた。会場となったサンパール荒川大ホールは1,120名定員である。そこに1,500人もの聴衆が詰めかけ、区や議会関係者も多数来場した。そのコンサートの感動が、それ以降、区民祭りなど区の多くの行事に必ずといってよいほど「朝鮮・韓国舞踊、音楽」が登場するようになった。20人にひとりの割合で在日が暮らしているのだから、区内の各種行事で紹介されるのは当然なのだが、この日のコンサートが区を動かすことになったのだ。
 南北自主的統一をめざす夏の恒例イベント「統一マダン」、数十年続く「日朝女性の集い」「北朝鮮に米を送る運動」など節目節目の取り組み、そして日常的な交流、人的信頼関係がベースとなって、8月10日を迎えたと思う。目の前にいる外国人と共に生き、暮らすまちを創りたい。当たり前のように多文化が存在する、その現実を直視し、思想・信条、立場の違いをふまえて、だからこそ共生のまち荒川を実現させる、8月10日はそのスタートの日でもあった。