【自主レポート】

時々、風と話す…
~ 映画・環境・音楽・まちおこし ~

茨城県本部/波崎町職員組合 横田 文弘

1. 東日本面白映画を探して三千里隊

 1990年秋、作家の椎名誠さんが撮った自主製作映画第1弾「ガクの冒険」をどうしても観たくて、地元の矢田部公民館に「町で上映してもらえないだろうか」とお願いに行った私たちは、前後して同公民館に「ガク」の上映の件で相談に来ていたグループがあることを知り、すぐにその人たちの会社を訪問。会ったその日に意気投合し、その日の夜には早くも「自分たちで上映してみようよ」ということになり、そのための打合せと称した宴会に突入。宴会は酔っぱらいモードに入ったまま「それじゃあ、グループの名前を決めようか」ということで、全員一致で椎名さんの「東日本ナンデモけとばす会」通称『東ケト会』にあやかり『東日本面白映画を探して三千里隊(通称:東三隊)』という名に決定。
 翌日からは仕事の合間の打合せやそれだけでは足りないと理由をつけては夜な夜な集まり、翌年春の「ガクの冒険」の自主上映会に向けて動き始めました。
 翌1991年5月、東三隊メンバーの勤務先の会社の全面的な資金援助を受け、矢田部公民館文化ホールにて「ガクの冒険」を無料で上映(1日4回)。町教育委員会の後援をもらい、町内の全ての幼稚園~中学校児童にチラシを配布し一般には口(クチ)コミで宣伝。その結果、約2,000人もの人たちがこの映画を観に来てくれました。このことに気をよくした私たちはアースデイイベントの映画上映部門の運営及び担当として、イベント開催時を中心に1991年から2000年までの間に15本の映画(屋外2本を含む)を上映、約7,000人もの人たちが映画を観に来てくれました。
 また、1991年の「ガク」に続き、隊の本来の目的である映画の自主上映会として1993年秋には「魔女の宅急便」を矢田部公民館で開催しました。

2. アースデイ

 1991年、湾岸戦争が勃発。流出した油にまみれた鳥の映像が私たちの心に強い衝撃を与えました。それまで口に出していただけで、実際に行動していなかった私たちにこの映像が「行動をおこしなさい!」そう云っていました。同年秋、環境問題に対して関心を持っている人たちに呼びかけ、波崎町職員組合を事務局として「出来ることから少しずつ」をテーマとして『アースデイはさき実行委員会』を設立。その後、波崎町への進出企業各社・青年会議所・銀行・スーパー・消費者団体等の協力を得、1992年から毎年春にアースデイイベントとして1~2週間程度の環境関連のパネル展と、そしてその最終日にはフリーマーケット・手作り石鹸実演・トーク・ライヴ・映画の上映等を矢田部公民館を中心に開催。『シンク・グローバリー、アクト・ローカリー(地球規模で考え地域で行動)』をキーワードに活動を展開してきました。
 この運動の特徴としては自治体・労働組合・企業・団体・国籍・宗教などの壁はなく、誰もが自由に参加できるものを、そして環境問題に対して関心を持ち自主的に行動して行く人たちの気持ち(心)の集合体というところがあげられます。
 こうして1992年春から始まったアースデイはさきの活動以外にも、1994・96・98年にはNGO代表として市民国会(参議院議員会館・憲政記念館等で開催)に、1998年秋からは県が後援している「環境パートナーシップフォーラム」に毎年実行委員として参加。またこのフォーラムの実行委員の有志たちと茨城県全体をカバーしたアースデイ運動を展開することを目的に、1999年秋に『アースデイいばらき実行委員会』を設立。西暦2010年を目標に活動を開始、西暦2000年のアースデイでは4月~5月の2ヵ月間をアースデイ月間として鹿嶋市・つくば市・波崎町・水戸市を含む県内40会場でアースデイいばらき2000を開催し、メインとなる水戸会場では約2万人が、茨城県全体では約5万人の人たちが参加。続く2001年は4~6月の3ヵ月間をアースデイ月間として前述の地域に鉾田・日立を加え、県全体で約7万人もの人たちが参加。21世紀に向けあらたなるエポックメーキングなものになりました。

3. 国際ビーチクリーンアップ

 『BE-PAL』というアウトドア雑誌で知り合った女の子たちが1991年に始めた国際ビーチ・クリーンアップキャンペーン活動に興味を持ち、当初は個人で参加。その後自治研部の活動として取り上げ、また並行して地元のサッカースポーツ少年団の子供たちと一緒に毎年9月22日の国際ビーチクリーンアップデイ前後の土曜日にビーチサッカー(時には海で泳いだりしたり)を兼ねて海辺への漂着ごみの調査を実施。1993年秋には当時のアメリカ合衆国大統領ビル・クリントン氏より日本のメンバー宛てに感謝のメッセージが送られてきたことは本当にうれしく、また感動ともいえる驚きでした。

4. 環境問題

 1994年秋『環境フォーラム(地元の中学生たちによる環境問題に対する研究発表・ピアノライヴ・映画「チスト・みどりのおやゆび」の上映)』を矢田部公民館で、また翌週の土曜日には奥尻島・普賢岳災害救済街頭ライヴ(泉谷しげる)をつたや波崎店駐車場にて開催。泉谷さんとの約半年間にもわたる出演交渉の末の約40分にわたる放送禁止・過激(バカヤロー、そこの○△×など)なライヴとライヴ終了後の1時間30分にも及ぶ募金(約20万円が集まりました)してくれた人たち全員との握手と好みの女性とのキスの会は茨城・千葉県では波崎町だけの開催になりました。
 翌1995年夏には『地球を守ろう子供たち!』というタイトルで落語・ピアノライヴ・映画の上映会をはさき生涯学習センター玄関前(野外)にて開催。星の下で波の音と風をBGMにとても気持ちがいい一夜を過ごしました。
 1997年、TVで日本海重油災害のニュースを見て再び心が震えました。「現地に行けなくても何か出来ることはないだろうか」という気持ちが行動に、翌日には組合を通じ町職員に呼びかけ募金を実施。また夏から秋にかけては12月に京都で開催される地球温暖化防止国際会議(通称COP3)に向けた『列島縦横エコ・リレー(東北・太平洋コース茨城ルート)』に参加。私たちが茨城ルートの窓口となり北茨城市~波崎町まで350㎞をつくば大学の学生や多くの人たちの協力を得て5日間かけて自転車で走破。最終日には波崎町役場にて千葉県へとリレーをつなぎ、さらに1998年7月には『グリーンレイク&リバー、水辺をつなごう(徳川慶喜がかつてたどった鉾田~波崎町までの60㎞の水路をカヌー等で再現)』を、また8月には市民連続講座『霞ヶ浦の水飲みますか!』を鹿嶋市で開催(共催は市民オンブズマンいばらき)するなど98年も相変わらず忙しい1年になりました。
 しかしながら、これらの活動費のほとんどは個人持ちという「自虐的(?)」な楽しさにどっぷりとはまってしまい、活動範囲もいつのまにか茨城県内から本州を飛び越して北海道から沖縄まで拡大(1999年10月には『水郷水都全国会議(宮古島)』に出席)していくことと比例して、借金だけは相変わらず増えていくという事態に陥りながらもこの年もブレーキを踏むこともなく、さらに自治体学会の会員や日本めだかトラスト協会の発起人になったり、11月にはパートナーシップフォーラムに実行委員として月に2度の水戸詣出(実行委員会)が加わり、忙しい上にまたまた忙しくなった中、2000年1月には前年の10月に続き沖縄県の本部(もとぶ)で開催された『めだかと環境やんばるフォーラム』にもちろん自費で参加。これらの沖縄行きは2回とも「休暇」をとり大手を振って(?)会議の間にカヌーを漕いだり泳いだり、海辺で昼寝をしたり、キーンと冷えたビールを飲んだり、また沖縄でビーチクリーンアップ活動を続けている人たちや喜納昌吉&チャンプルーズの喜納昌吉さん(アースデイいばらきのキャンペーンソングを依頼)に会ったりして「楽しい旅」になり、2001年1月にも沖縄へ酒とカヌーの旅に。そして7月、沖縄での思いつきから「霞ヶ浦・北浦縦断カヌーレース(アサザ・カップ)」を開催することになりました。

5. こどもエコ・クラブ

 国際ビーチクリーンアップ等に参加しているサッカースポーツ少年団の子供たちとこどもエコ・クラブを結成。毎週のサッカーの練習場への行き帰りのごみ拾いや子供たちが通っている小学校への通学路の粗大ごみ調査など、サッカーというスポーツを主体にしながら、遊びの要素を加え「環境」について子供たちと一緒に考え行動を始めました。また、2001年からは地元の小中学校等からの要請で総合的な学習のゲストティーチャーとしても活動をするようになりました。

6. 水環境調査・研究・発表

 1988年~現在までの間にパックテスト等を使って利根川・常陸利根川、霞ヶ浦等における水質や水辺環境保全等の調査・研究を行なったり、雑誌・新聞・専門誌等や水郷水都全国会議等で発表を。また1995年9月に実施された霞ヶ浦導水利根ルートの第1次通水試験時に起こったシジミの大量斃死を機に地元の波崎町共栄漁協等に協力し、利根川・常陸利根川両河川の水質調査等を実施。
 その結果をもとに県や国(国土交通省)・水資源開発公団等に利根下流水質検討委員会を設立することを要望。翌年、委員会の設置に成功。検討委員会での調査の末、1996年に予定されていた霞ヶ浦導水利根ルートの第2次通水試験以降の事業は事実上凍結されましたが、私たちは漁業関係者や市民オンブズマンいばらき等と連帯して2001年「霞ヶ浦導水事業を考える県民会議」を設立し、同事業への監査請求、そして同時業の中止を求める住民訴訟を起こし、2001年6月にはNHKの首都圏ニュース(テレビ)の特集(霞ヶ浦導水を検証する)の取材に協力するなどの活動を展開。かなりの反響を呼びました。2002年、ついに国は茨城県などの要望をくみ、同事業の見直しを決めました。
 こうした活動の中で水・水辺の環境保全の必要性を感じ、1999年夏から2000年春にかけては鉾田町・茨城町等にて里山保全活動(間伐・下草刈・苗植え・炭焼き等)にも参加・協力、あらためて環境保全活動の重要性を確認しました。

7. East Wind … そして

 映画の上映、そして地球環境問題(アースデイ活動を含む)についての地域住民への啓発活動以外にも前述のように自治研部の活動はあっちへいったりこっちへ来たりしながら、気がつくとまちおこし活動にもかかわっていました。まずは1996年秋、千葉県海上町がまちおこしを目的に開催している「ドラゴンエッグ・スーパーバンド・コンテスト」初代グランプリバンドのボーカリストである「中村隆道」の初めてのホール・ライヴを企画。チケットの作成から当日の運営までを自分たちで行い1,000人規模のライヴを開催。
 1997年春にはドラゴンエッグのメンバーを中心に千葉・茨城の有志たちが加わり『THE POWER 実行委員会』を設立。同年夏のドラゴンエッグスーパーバンドコンテストの前夜祭として落語・弾き語りライヴ・映画「あひるのうたがきこえてくるよ」の上映等を海上町のキャンプ場で開催しました。
 また1997・1998年秋には那珂川カヌーフェスティバル(御前山)に参加。1999年夏には日本めだかトラスト協会の発起人の一人としてこどもエコ・クラブのメンバーとめだか探し隊を結成し活動を開始。
 さらに同年秋には、はさきふるさと塾が音楽・演劇等の上演によるまちおこしを目的として1999年1月に開催したアマチュア演劇の上演に続き、第2弾として私たちが企画から運営までを担当し『伊勢正三 With 山本潤子弾き語りライヴ』をアースデイはさきのメンバー所有の結婚式場をライヴハウスに見立てて開催。これらの活動ヘの参加のきっかけは、はさきふるさと塾の「自治体の持っているコンサートホールを使わずアコースティックなものを自分たちで作り続けてていこう」という趣旨に意気統合したため。そしてライブ当日の打ち上げで気分をよくした私たちは「ライブもアースデイも2000年以降もやるぞ!」と宣言。
 2001年4月にはアースデイベントと合体した形でアースデイ最終日に『ばんジローズ(杉田二郎&ばんばひろふみ)弾き語りライヴ』を、5月と11月には河野さんのピアノライブと中村隆道ライブを地元のレストランで、11月には結婚式場で『大野真澄弾き語りライブ』を開催するなど、屋内外とも自治体のホール以外の場所を使った活動が多くなり、この年は主催・共催・協力など合わせると年間で10本以上のライブ・演劇・講演会などに関わったのでした。また、アースデイ2002では連合鹿行地協に協力し、4月27日のメー・デーと合体、3,000人規模の野外イベントを開催しました。
 こうして映画の上映が目的で始まり、アースデイと合体し環境問題と係わり、まちおこしを目的としたライヴ等の開催にまで発展した「自称ノーテンキな私たち(自治研部・東三隊・アースデイはさき・アースデイいばらき実行委員会と、その場その場で名称を使い分けをしなければならなくなってしまった私たち)」は活動を始めて11年という時間を経て『本当にノーテンキな』集団になってしまいました。

【 資 料 】 活動記録(1991年~2002年)