【代表レポート】
原子力防災訓練を検証する
福井県本部/副委員長 服部 和巳
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1. 林立する若狭湾の原子力発電所
1970年、大阪で日本万国博覧会が開催された。「エキスポ」と略称される世界的な規模と視野で開かれる万国博は、新しい文化の創造や産業技術の発展、都市開発の促進と契機など人類史上の活躍に欠かせない。
日本経済成長の真っただ中にあった大阪万国博覧会は、連日長蛇の列であふれ誰もが心を躍らせ未来に夢を馳せた。3月14日開幕の日「万博に原子の灯を」とのうたい文句に、福井県敦賀半島では国内初の商業炉原発・敦賀1号機が営業運転を開始した。
初送電した日本原電(株)敦賀1号機は、県民の誇りは高まり日本が誇る技術の粋を集めたとして大きな期待と評価が集められた。あれから早くも稼働32年が経過し、度重なる事故続きで過日2010年に廃炉が決定した。
大阪万博以来、日本は高度経済成長期に乗って右型上がりの公共事業投資に沸き、1979年までに福井県内に9基の原子力発電所が建設された。県や自治体も原発交付金目当ての地域起こしに東奔西走した。この時代は、何よりも国策に優先され原発の安全性と廃棄物処理など県民の不安と不信は疎外された。一方、国をはじめ電気事業者は、技術陣への過信から「事故は絶対に起こらない」とする原発安全神話が生まれた。
しかし、敦賀1号機が本格稼働するとトラブルが続発した。勿論、次々と営業運転に入る他の原発もまた無事故であるはずがなかった。主な事故では、一般排水路からの放射能漏れ、蒸気発生器細管漏えい、燃料棒破損事故などであった。これらの事故も、事故発生から数時間から数日を経過しての発表であり、この間、私たちは県や事業者・国に対して情報公開を迫り事故隠しを追求した。
多種多様の原発トラブル発生の度に、県は事業者と交わした安全協定に基づいて調査に努力した。しかし、現場は立入り禁止で証拠品はすべて国が握るといった状況のなかで、地域住民の安全性と信頼性を確保する県の姿勢を評価した。当時、国などから示される資料は戦時中を思わす墨塗が余りにも多かった。さらに県も原子力技術者を置き、県民の疑問に答え資料提供に努力を惜しまなかった。
こうした中で、1979年に米スリーマイル島原発事故が起きた。私たちは、「来るべきものが来た」との認識で原子力政策の閉鎖性・隠蔽性を追及する活動に一層の拍車がかかった。また、再び自治体は交付金を当てに原発誘致に動き、国もまた1985年の電調審までに「もんじゅ」を含む6基の原発建設を決定した。かくて、福井県内の原発は敦賀市から高浜町まで風光明媚な若狭湾に15機を数え、諸外国に例をみない60km範囲に多種多様の原発が林立した。
=福井県の原子力事業所設置概要=
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原子力事業所
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号機
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炉型
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許可出力
万KW
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営業(本格)運転
開始年月日
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備
考
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運
転
中
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日本原子力発電(株)
敦賀発電所 |
1号
2号
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BWR
PWR
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35.7
116.0
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1970.3.14
1987.2.17 |
● |
関西電力(株)美浜発電所 |
1号
2号
3号
|
PWR
〃
〃
|
34.0
50.0
82.6
|
1970.11.28
1972. 7.25
1976.12. 1 |
|
関西電力(株)大飯発電所 |
1号
2号
3号
4号
|
PWR
〃
〃
〃
|
117.5
117.5
118.0
118.0
|
1979. 3.27
1979.12. 5
1991.12.18
1993. 2. 2 |
|
関西電力(株)高浜発電所 |
1号
2号
3号
4号
|
PWR
〃
〃
〃
|
82.6
82.6
87.0
87.0
|
1974.11.14
1975.11.14
1985. 1.17
1985. 6. 5 |
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核燃料サイクル開発機構ふげん発電所 |
ATR
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16.5
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1979. 3.20 |
● |
小 計
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14基
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1,145
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建設中 |
核燃料サイクル開発機構もんじゅ建設所 |
FBR
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28.0
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(1995年の事故により未定) |
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小 計
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1基
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28
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合 計
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15基
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1,173
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炉型 |
BWR:沸騰水型軽水炉 |
PWR:加圧水型軽水炉 |
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ATR:新型転換炉 |
FBR:高速増殖炉 |
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●印は、廃炉が予定されている。 |
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2. 福井県原子力防災への取り組み
1986年旧ソ連チェルノブイリ原発事故が発生し、またたく間に全世界に恐怖と不安が走った。不気味な鉄とコンクリートの塊が放映され、恐そるべきものが現実となって放射能下で恐怖に怯える市民の姿は、まさにこの世のものとは思われなかった。
この事故を契機に、県の姿勢は原発推進に置かれていた軸足の一方を、安全性へと透明性確保に向けられたかのように見えた。それらは私たちが主張する事故隠しと情報公開、住民参加の防災訓練、国の一元的な管理体制の3点は何1つ解決されなかったからだ。中でも情報公開については県民の疑問には答え、答えられなくても空欄が多い何らかの資料を提示するようになった。しかし、住民参加の防災訓練は「住民に危機感を助長するだけ」との一点張りだった。
福井県が原子力防災に本格的に動きだすのは、1991年2月の美浜原発で蒸気発生器破断事故でECCSが作動してからだった。これまで数多くの事故例からは想像を絶する大事故だけに、過信する国・事業者の技術群はショックを隠しきれなかった。
世にいう美浜2号ギロチン破断事故で、原子力発電の持つ生命線であるだけに周辺住民の不安・不信感情と風評被害は最高潮に達した。また一方では、バブル崩壊も手伝って景気低迷から脱却するため、景気対策に福井県議会は1993年に日本原電敦賀3・4号機増設促進の陳情を決議した。
この決議に多くの県民は「これ以上の原発はいらない」とした県民署名に立ち上がった。1年間を要した署名運動は82万県民の内、213,749名の増設反対の声を知事に届けた。1995年3月、この草の根連帯の署名結果を知事は「重く受けとめる」と答え、翌年には原発15機体制を総括する「現状と課題」(運転管理の強化や広域的な地域振興などを求めた内容)を議会に報告した。
この様な背景の中、福井県原子力防災の一里塚となるべく県原子力環境情報ネットワークシステムが1995年4月から運用を開始した。原発立地自治体にはリアルタイムで環境情報が伝えられ、市民もまた監視役を務めることが出来るが住民参加の防災訓練はこの時点でも門を閉ざされていた。
北陸に冬将軍を呼ぶ1995年12月8日、高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が起きた。設置段階から危険視する声が多いだけに、県は事業者との安全協定をもとに立入り調査を行い情報を公開した。この機敏な行動は原発立地県に大いなる勇気と称賛を送られたのはいうまでもない。
事業者の事故隠しが完全に暴かれたのである。これまで国も事業者もリアルタイムで発表する意識がなかった。県は早い段階から原子力技術者を置いた結果、常に独自の問題点を指摘し国を追認させてきたからだ。また、この事故を契機に1996年1月に福井・福島・新潟の3県知事が原子力政策について国に提言した。こうして国にとって福井県の原発行政は大きな存在として認められ、全国の原発立地自治体をリードするようになった。
しかし、原発事故は「もんじゅ」に止まらず、核燃東海処理施設爆発事故をはじめ1999年にはJCO臨界事故で日本の原発事故史上、最大の犠牲者を出すに至り、日本列島を原発恐怖に慄いた。この様にして、原発事故は多発だけでなく危険度が拡大し、グレートアップする方向に向かっていることに不安を隠しきれなかった。
この段階に至って初めて、国民は原発に対する不安と不信・恐怖を抱くようになり、原発神話は完全に崩壊した。世界もまた、脱原発への流れを加速し高速増殖炉開発の撤退により、核に対する不信を改めて思い知らされた。だが、現に存続する原発立地住民はその地を離れられない現実にあった。
3. 原子力防災訓練の成果と反省
これまでの原発防災訓練は、自治体・事業者のみによる訓練に終始し、淡路・阪神大震災後の様な国・自治体による総合的な防災は全く無かった。また、自治体が参加する訓練も非公開であり住民には全く知らされなかった。たび重なる原発事故では、連絡通報の遅れが常に指摘され、その度に「原因究明と再発防止」が繰り返され、周辺住民に対する安全・信頼関係は損なわれる一方だった。
巨大化する原発事故に対し、私たちは終始一貫「国の一元的な管理下の訓練・住民参加の訓練」を事ある毎に県に申入れを行った。そして、JCO事故では初期通報の遅れ、放射能監視・モニタリングの遅れ、被曝検査の遅れ、住民避難の遅れ、混乱による2次汚染などと、一貫した対応の欠陥と遅れが要因となって国内の原発史上最大の事故につながった。
このJCO事故を教訓として、原子力関係防災指針や防災基本計画原子力災害対策編で対応した国の原子力防災計画は大きく改定の必要性に迫られた。政府は1999年「災害対策基本法」に加え、新たに「原子力災害対策特別措置法」を慌てて成立させるに至った。
原子力災害対策特別措置法と福井県原子力防災訓練
年 月 日
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主な動き・内容など
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1999年 9月
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JCOで臨界事故。2名死亡、666人が被曝 |
1999年 12月
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原子力災害対策特別措置法成立 |
2000年 3月
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第1回福井県原子力防災訓練(敦賀原発2号機)
57機関、約1,300名 |
2000年 6月
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原子力災害対策特別措置法施行 |
2001年 3月
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第2回福井県原子力防災訓練(高浜原発3号機)
76機関、約1,600名(県境を越える) |
2002年 2月
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県下4ヵ所のオフサイトセンターが開所
(敦賀市・美浜町・大飯町・高浜町に設置) |
2002年 3月
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第3回福井県原子力防災訓練(美浜原発3号機)
85機関、約1,600名 |
これまで福井県は、事業者との安全協定や多くの専門官配置により独自の原子力防災・監視を持つに至った。また、福井県原子力防災計画についても全国に先駆けて厳しい基準を設定するなど、15機の多種多様な原発を抱えた結果により県も県民に対して透明性を高めようと努力した姿だった。
こうした中で、JCO事故を教訓として私たちの主張した「国の一元的な管理、住民参加の訓練」は、原子力災害対策特別措置法の施行を先取る形で実現した。
第1回福井県原子力防災訓練は2000年3月23日、敦賀原発2号機で放射能物質が放出されたことを想定して行われた。国・県・自治体・事業者が一堂に会するオフサイトセンターが敦賀市に設置され、周辺住民570人が初めて原発事故訓練を体験した。これまで「恐怖心を助長する」とした態度から「原発と共存し安全性を高める」姿勢には少なからず評価した。
私たちは自治労本部の助言を元に監視行動を組織した。事故の際、いち早く住民避難・誘導対策に駆り出されるのは消防を含む自治体職員であるからだ。初めての原子力防災訓練は、この様にして住民参加の実現とオフサイトセンター設置によって一定の前進を見た。
しかし「訓練のための訓練」や「緊張感が足りない」など通常の防災訓練と変わらないとの印象が残った。また、オフサイトセンター各ブース間の連携不足、的確な情報提供の不足、訓練とはいえ原発の前を通っての避難、測定機器の不足など余りにも臨場感に乏しい総括がなされた。
原子力災害対策特別措置法が施行された翌2001年3月には、第2回福井県原子力防災訓練が高浜原発3号機で事故想定して実施された。福井県地域防災計画(原子力防災編)に基づいて、府県境を越えて初の訓練となるだけに実効性を高めていく監視行動を行った。
問題点として、原発立地の若狭湾一体は複雑な海岸線であり特に高浜原発周辺の集落は風向きによって街頭からの訓練周知は聞き取れない箇所など訓練参加者への問題が多発、放射能に対する防護知識と移動時の防護訓練の必要性、府県を越えて事故想定原発との距離に差異がある、などが浮き彫りとなった。いずれにしてもリアリティの欠如が総括として行われた。
今後の改善点は、訓練想定範囲は10km以内の全住民を対象にする。事故想定規模および気象条件は四季を変えて行う。常設のオフサイトセンターは10㎞以外に建設する。訓練のための訓練でなく事故時に役立つ内容。道路事情から海上輸送訓練を取り入れる。訓練参加者は健常者以外も対策が必要。などと次回からの課題を整理し、これまでの通り県原子力防災訓練の前に県に対して申し入れを行った。
原子力災害対策特別措置法に基づいて、原発事故時の連携拠点として県内4ヵ所で建設されていた原子力防災センターの開所式が2002年2月24日に一斉に行われた。各センターには経済産業省の原子力保安検査官事務所が併設され、緊急時には関係者200~250人が結集できオフサイトセンター機能のほか現地対策本部などが設置され、情報の共有や連携した対応を行うことが出来る。
その原子力防災センター(常設のオフサイトセンター)の1つである美浜原子力防災センターを、初使用しての第3回福井県原子力防災訓練が2002年3月30日に美浜原発3号機を事故想定として実施された。特に今回から、ヘリコプターによる被曝患者搬送訓練、住民避難に海上輸送訓練など従来の訓練項目に加わっており僅かながら改善の兆しが見えてきた。
しかし、これまで3回目の原子力防災訓練を終えてもなお、様々な問題点が浮き彫りになった。その多くは、避難対象区域が5~6km範囲と余りにも狭すぎること。輸送機関が実際に機動出来るか、起こりうる交通パニック対策には何ら考慮がなされていない。
事故は起こる、それは何時か、起こった場合の住民被曝ゼロや住民非難を最大限に追求する。これこそ原子力事故対策における基本的な考えであり、そのためにリアリティに富んだ原子力防災訓練が必要不可欠である。
4. 必ず起きる原発事故への課題
15機が林立する福井県内の原発で、現実的には中事故でも微量の放射能が撒き散らされている。それでも推進側は「原発が炉心溶解や臨界事故など最大級事故に耐えられる」とした根強い原発神話が根底にある様な気がする。巨大化する原子力事故に恐怖心を助長することなく、原発と共存した原子力防災が完全な形で確立するには道程は遠い。
これまでの防災訓練毎に総括したように、国・県・自治体・事業者と同じ土俵で汗を流し原子力防災がある面では高まったかのように見える。が、国民の多くはまだ深層に偏見の域を抜け切れずに日々の生活を送っているといえる。それらは地震情報が、テレビのテロップで直ちに周辺住民に知らされ、対応策が取れる体制にあるのに対し、原発事故に関してはなお視界不良の状態が続くからだ。
一方で、高レベル放射能廃棄物処理に原子力発電環境整備機構が、2020年までにガラス個化体約4万本の深地層候補地捜しの問題。県内では15機体制が確立するなかで敦賀3・4号機増設の問題、もんじゅの再稼働問題など高いレベルの課題が山積する。
現実的に、県内最新鋭原発でさえ稼働にあと30年、廃炉対策まで更に30年間が必要と思われる。この間、県民は原発と隣合わせに生活権確保へ余儀なくされる宿命にある。原子力防災訓練で、いつの日か再び問われる臨場感が必ずやってくる。
「原子力災害は必ず起こる」ことを前提に、原発銀座といわれる福井県の原子力防災計画の見直しを含む防災訓練の実行性を高める日々の努力が求められている。先進的な他府県の原子力防災訓練監視行動に習い、これまで3回の福井県原子力防災訓練を検証してきたが、国・県ともシナリオ通りであり「訓練のための訓練」から、いまようやく市民レベルへと改善の兆しが見えてきた。ドイツではペットを含む大規模な住民参加で防災訓練がなされると聞く。この意味で、原発と共存した本格的な原子力防災に何とかその入り口に立つことができた。
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