【自主レポート】

第37回土佐自治研集会
第12分科会 新しい公共のあり方「住民協働」理想と現実

 市民協働のまちづくりが全国各地で進められています。東松島市でも、2005(平成17)年から市民協働のまちづくりを進めてきました。東日本大震災後の防災集団移転のまちづくりも同様に進めようとしましたが、はじめは、移転者との間に深い溝ができ、まともな話し合いができませんでした。しかし、しだいに信頼関係を取り戻し対話ができるようになり、魅力あるまちづくりにつながっていきました。その経緯をレポートします。



防災集団移転における新しいまちづくり
―― 対話により愛着深いまちが生まれた ――

宮城県本部/東松島市職員組合 難波 和幸

1. はじめに

 2011(平成23)年3月11日(金)、東日本大震災により本市は大きな被害を受けました。
① 地震の規模等
 震  度 6強
 津  波 野蒜海岸で10.35m(浸水高)
      大曲浜で5.77m(浸水高)
 浸水面積 市全体面積102km2のうち37km2浸水(36%)
      うち住宅用地(市街地)12km2のうち8km2浸水(65%)
② 人的被害(市民)
 死   者1,109人 
 行方不明者24人 
 合   計1,133人(全住民の約3%)
③ 家屋被害
 全   壊5,513棟(うち流失1,264棟)
 大規模半壊3,060棟 
 半   壊2,500棟 
 合   計11,073棟 
④ 避難者(最大) 15,185人
⑤ 避難所(最大) 106箇所(2011.8.31全て閉鎖)
 
 
 このような被害状況の中、本市では安心安全な暮らしを求めて高台や内陸部への集団移転を進めることにしました。ふるさとを失くした住民と法律・予算・時間の制約のある行政による話し合いは、はじめ平行線をたどりましたが、その後の対話によって、多くの住民の意見が反映されたまちが誕生することになりました。その経緯などについてレポートします。

2. 新しいまちづくり

(1) 集団移転団地ごとに協議会を設立
 移転対策部生活再建支援課が事務局となり、集団移転地のまちづくりを進める合意形成を図る場(協議会)の設置を移転希望住民に呼びかけ、2012(平成24)年11月から12月にかけて移転先団地ごとに設立しました。協議会の運営サポートについては、復興交付金を活用してNPOやコンサルタントに担っていただきました。


(2) ワークショップや懇談会などにより話し合い
 移転団地内の道路や公園、集会所の位置・間取り、景観(街並み)を維持するためのルールなどについては、ワークショップや懇談会、意見交換会で話し合いを行いました。これらの話し合いは、多様な方が参加できるように、場所(仮設住宅集会所や新しくできた小学校の体育館など)や日程・時間帯などを変えて実施するなど工夫しました。また、徹底的に議論し、使い勝手を最優先として、特徴があり地域の魅力・シンボルとなるように整備していきました。

 

(3) 入居区画決め
 入居区画決めも移転先によって手法が異なりました。一番特徴的だったのは、あおい(東矢本駅北)地区です。話し合いを前提とし、抽選は最後の手段として極力話し合いで区画決めが行われました。もちろん、単純な抽選より時間が掛かりましたが、大きな副産物がありました。ひとつ例を出して説明しますと、認知症を持っている家族がいる世帯が、家がわからなくなりにくい歩行者専用道路沿いの区画を希望しました。希望は数世帯が重複していましたが、ほかの希望世帯が事情を勘案してくれて譲ってくれたのです。これで、それぞれの世帯同士に良好なコミュニティが生まれることになりました。
 話し合いでは、区画決めはなかなかまとまらないのではないかと危惧していましたが、心配とは裏腹に、思いやりを持って進められ、意外にも円滑に区画決めが進みました。円滑に進んだ理由を分析すると、ひとつの区画に固執していた世帯は少なく、2~3区画のほぼ同程度の希望を持った世帯が多くあったということでした。そのことで、譲り合う気持ちが芽生えたのだと思います。また、街区ごとに集まって話し合いが持たれたことで、顔合わせができ、どのような人が一緒に暮らすようになるかも見えることになり、コミュニティ形成促進の一助にもつながったのでした。

(4) 公共施設などの検討
 ワークショップから出てきた意見などをもとに、部会が設けられ検討が進みました。この検討が、一番難航しました。移転者から出た意見は、ふるさとを失った喪失感を埋めるため、多種多様でそのほとんどが高水準の暮らしを求めたものでありました。一方、災害復旧費を財源としたものは、災害前にあった機能の復元が基本で、移転者の希望をはるかに下回るものでありました。移転者からの意見は、理想のまちをめざしてどんどんエスカレート、それに対して行政側は、あれもできませんこれもできませんという回答しかできず寄り添うことができませんでした。協議をしてもまったくといっていいほど進展がなく、怒号も飛び交いながらの協議の場となってしまいました。いつしか、このままでは何も進まないとの危機感が双方から生まれ、その段階でどの程度の予算や規模で事業がやれるのか教えてほしいとの意見が移転者側から出て、ありのままの予算や制約、期限などについて行政側が具体的に説明をすることになりました。説明により、移転者もその中で協議を進めなければならないと腹を括ってくれました。その後は、移転者も行政もめざしているところは、くらしの復興・ふるさとの復興であるとお互い気づき、目線を合わせて本音での話し合い、対話ができるようになりました。行政側は、素案を早めに提示し、修正可能な時期も提示、できること・できないことを明示することも心がけました。できないとの回答の場合は丁寧に説明もするようになりました。移転者も、真に必要なものの取捨選択とともに優先順位の付与、代替案の提示を行うようになり、住民同士も対話し総意形成にも取り組むようになっていきました。
 これにより、使用用途によって間取りを工夫した集会所(三つの自治会でシェア)、季節が感じられるシンボルツリーがある公園、日本一の健康遊具数が備えられた公園、コンセプトがあり子どもが選択して遊べる特徴のある遊具がある公園などが誕生し、調整池の有効活用(太陽光パネルを調整池上に設置、非常時には地区の非常電源となる)も図られることになりました。

 

(5) 災害公営住宅の検討
 災害公営住宅についても、様々な検討が行われ、移転者の意見を多く反映した住宅を建築しました。その災害公営住宅を私は「セミオーダー式災害公営住宅」と呼んでいます。戸建ての住宅では、アンケート調査を踏まえ、高齢世帯が多く望んだ平屋を増加することになりました。また、2階建て住宅には、当初設定のなかったベランダを、布団などを容易に干すことができるように追加設置することにしました。集合住宅では、エレベーターの向きを変更して、エレベーターホールスペースを生み出し、集いの場として使えるようにしました。
 様々な意見を反映したのは、愛着の持てる住宅として将来の払い下げ促進や、公営住宅への切り換えを見越して魅力のある住宅にしておくべきとの意図もあったからでした。

 

3. 新しいまちづくりを支える体制

(1) 庁内の組織体制
 防災集団移転の新しいまちづくりをサポートする中心部署として、移転対策部生活再建支援課内に2012(平成24)年11月1日に移転支援班を新たに設置することになりました。

(2) 庁内外の連携体制
 復興のスピードを加速させるために、庁内に横断的な組織の立ち上げが必要とのことから、集団移転先ごとの地区担当グループを組織し、集団移転ごとに設立された協議会の会議等に出席することを要請しました。新しいまちづくりは、生活再建支援課移転支援班が中心となって進めますが、様々な部署がまちの将来像を描きながら所掌する業務に関わる課題の解決に向けて当事者意識を持ち、関係する部署と連携を密にして取り組んでいくことが最善の方法であると考えたからです。以下に当時の連携体制の関係図を掲載します。


移転先まちづくり整備協議会主要関係図

(3) 情報共有の徹底
 庁内では、情報の共有についても徹底しました。今、各団地の防災集団移転の新しいまちづくりがどのような進捗にあるかをイントラネットでいつでも確認ができるようにしました。会議の資料や報告書のほかに、各団地のまちづくりの状況(概要)が一目でわかる一覧表も、ある程度の間隔で作成して格納して見える化をしました。

4. まとめ

 住民と対話して事業を進めることは一見、とても時間が掛かってしまうように思えますが、急がば回れとのことわざがあるように、トータルで考えると実は最短の方法であると考えます。実際に、ほかの被災自治体では行政主導で進み過ぎたことで、被災住民から事業開始直前になって行政が作成した計画に対しての反対意見が大きくなり、事業が一時ストップしてしまったところもありました。
 住民を説得するのではなく、住民が納得するまちづくりに取り組んでいくことがとても大切です。意見が反映されたところが、まちのあちらこちらに存在することで、そのまちに愛着も湧き、住民活動にも積極的に参加するきっかけにもなっています。防災集団移転のまちづくりに取り組むことで、本市では紆余曲折はありましたが、対話によるまちづくりができました。今、防災集団移転により誕生したまちは、継続して住民主導でまちづくりを進めていて、本市の市民協働のまちづくりをさらに進めるモデル地区になろうとしています。