Ⅱ パネリストからの問題提起


1 有機農業は新しい経済社会をつくる

  星   寛 治

 

1. 近代化を超えるもう一つの道
 1970年代、青年団活動と地域民主化運動で認識を拓いた若い農民たちが、農業近代化の光と影を足元の所で見つめ、深化する矛盾をのり越えていく道を模索し始めていた。工業化と地域開発が急激に進む中で、各地に公害が発生し、住民に深刻なダメージを与えつつある実態が明らかになってきたが、良く見ると農業の現場においても、農薬公害が広がっているのではと気付いたのである。1973年、20代の若者を主体に、38名の農民が参加し、高畠町有機農業研究会が結成された。その出発の柱は、(1)安全な食べ物づくり、(2)健康な土づくり、(3)自給を回復する、(4)環境を守る、(5)農民の自立をめざす、というものだった。今から28年前に、環境と自立を視野に入れた新しい農民運動が、ここ山形の地に生れたわけである。本物の食べ物を生む農法改革が、やがて地域社会のありようを変えていく筋道に通ずることを青年たちは根底で自覚していたのかも知れない。
 しかし、化学肥料も、農薬も、除草剤も使わずに、堆肥だけで作物を育てることは、当初、想像以上の困難を伴う行為であった。とりわけ稲作において、これまで除草剤で押えられていた雑草がワッとばかりに繁茂し、明けても暮れても四つん這いの田の草取りが続いた。また、病虫害を防ぐために、座敷ぼうきで虫を振り払い、除草機で泥に埋め込むという原始的な方法もあえて行った。その姿は地域住民からは殆んど理解されず、嘲笑の的でさえあった。しかも、出来秋の収量は六分作が精一杯で、労多く功少ない結果に終った。そうした試練に耐えて、先の見えない有機農業を続ける為には、まず自分とのたたかいが必要であり、さらに社会的な逆風や圧力と戦う構えが求められる。近代化農政の潮流に抗し、生命と環境を何より大切にするもう一つの道を探究することは、いわば反体制の運動と目され、時には精神的な村八分状況に追い込まれることもあった。それをのり越えて、実践を持続できたのは、青年活動で鍛えた足腰の強さと、たとえ小集団であっても組織的な日常活動の力、いわば柔軟な共同性の底力だと思っている。
 1976年、東北地方を襲った空前の冷害の中で、有機農業3年目の稲は、見事に平年作を確保した。甦える土の贈り物である。その後、4年続きの冷害にも打ち克って、手づくりの稲作が異常気象に強い抵抗力を持つことを実証した。地力が向上し、小動物や土壌微生物が豊かな生命活動をくり広げる土は地温が3度も高いことが解った。そうした生きた土は、作物を健康に育て、安定生産をもたらすようになった。いわば農民的技術の確立である。
 前述したように、出発点では、有機農業は自給を目的にした取り組みであった。ただ年期を踏むに従って収量も増え、少し余裕が生れた段階で、都市で消費者運動を続ける市民リーダーからつよい要請を受けて、有機農産物を直接届ける試みが始った。のちに、産直・提携と呼ばれる市場外流通の実験である。自家用トラックに自給野菜や果物を積んで、首都圏まで命がけで運んだ行動が、やがて「顔の見える関係」を合言葉に提携のネットワークを生成する原動力になった。市場に出荷しても見向きもされなかった有機農産物が、ほんとうの食べ物としての価値を評価され、心ある消費者市民に支えられて普及してきたことは、地べたを這ってたたかってきた農民にとって大きな力になった。つまり、自給から産消提携へと進展する中で、有機農業的経営が見えてきた。私たちが、有畜小農複合経営と呼ぶアジア的農業の営みが可能になったのである。手探りの10年を経て若者たちは漸く市民権を得たのであった。1982年、第8回全国有機農業大会が高畠町で開催されたが、その時掲げた主テーマが「地域に根を張る有機農業運動」であった。志を持った農民が点の存在である限りは、地域社会は変らない。点から面への広りを求めて汗を流そうと確認したのである。

2. 新しい村づくりへの波及
 有機農業研究会という同志的集団にとどまらず、地域の中に環境農業への胎動があれば、積極的に産婆役を務め、誕生後もこれまで蓄積してきたノウハウを注ぎ込んで、支援しようと考えてきた。1986年、私の住む和田地区に、水田の空散阻止を直接の動機として発足した上和田有機米生産組合は、3年目で130戸の農家を組織し、ほぼ地域ぐるみの運動体に成長した。30代の若手農民が機関車の役割を果し、徹底した現場主義に立って丁寧な栽培管理に取り組んだ結果、初年度から良好な生産を得た。同時に、後発の集団ながら多彩な販路開拓に努め、全量産直米として捌(さば)いた。たとえば、横浜の中堅スーパー、首都圏、北海の米穀会社、関西の生協、消費者グループ、地元の酒造会社、味噌醸造元、米菓会社、レストランなど、主食用だけでなく加工用としても提供をした。中山間地の手つかずの自然環境を活かし、産業として成り立つ米づくりをめざした目標への接近である。日常活動の中で、環境意識を高めてきた会員は、バブルの末期に押し寄せてきたリゾート開発の津波を阻止し、山裾の農地を守った。或は、産廃の処理施設の計画も住民運動で白紙撤回させた。その代り、和田懇話会などの住民組織を発足させ、自らの手で内発型の振興プランを描く取り組みに着手した。とりわけ、地場産業との結合を強め、安全な有機の食材で作った製品というイメージで企業は実績を伸ばしている。もちろん、風土の香りと作り手の心意気が美味しさを生み、消費者の支持を得た所産である。町内で食品産業だけでも10数社が立地し、雇用を生み出すと共に、地域経済の活性化に貢献している。元来、高畠の地域農業は、米、果樹、野菜、酪農、山林などの地域複合の形で発展してきた。夫々の産物と結び付いた地場産業の基盤に、ワイナリーのような個性的な誘致企業が加わり、有機の里のイメージ化で新たな価値を生んでいる。

3. たかはた共生塾の波動
 1990年、東西冷戦構造が崩壊し、歴史は地すべり的な変動を遂げつつあった。地域社会にもその余震は絶え間なく続き、社会システムの変革が求められていることを痛感した。少くとも、これまでの地縁社会の枠組みに安住したり、既存の組織集団のセクト主義では、構造的に変化する時代に適応できずに地盤沈下するのではという強い危機を抱くようになった。そこで、従来のしがらみや、垣根を越えて、一人の自立した人間として、学びたいこと、学ぶべきことを自由に学び合えるような、自前の学習集団を創ろうという気運が高まった。たかはた共生塾発足の動機づけである。年齢、職業、立場、性別、地域などを一切問わず、新たな時代に向けての人間形成と、課題意識があれば誰でも参加できる自在性があり、10年経った今日では130名の塾生が加入している。町役場の職員も10数名参画し、素顔の住民として意欲的な活動を続けている。共生塾の主要な事業である「まほろばの里農学校」や、「連続講座」などは町と共催し、広く公開しながら、これからの地域づくりを考える討論の場を作り出してきた。或は、大学生のフィールドワーク、行政職員の現地研修、地域おこしグループの交流なども受け入れ、相互研鑽の機会を活かしてきた。そうした交流が契機になって、高畠町に移住した新住民は、ここ8年間で50名に及ぶ。その新しい風は、ひらかれた町づくりのインパクトになっている。

4. 地域自立の方向性
 目前に迫った21世紀、まず地方分権が進む時代といわれる。しかし、国の財政破綻の肩代りを自治体に押しつけられては困る。市町村の財政硬直化も年々深まる実情にある。10年後を見通せば、行政のスリム化を急ぐ必要がある。しかし、行財政の改革が、住民サービスの低下に陥らないことが前提で、ハード事業からソフト事業に重心を移す軟着陸の方式が求められる。併せて、市民(住民)の価値観やライフスタイルの転換も意識的に促すことも大切であろう。いずれにせよ、産業社会が行きづまり、企業誘致などによる地域開発に限界が見えてきた今日、改めて地域資源を見直し、それを100%活かした内発的発展をめざす時代が訪れた。自然、環境、景観、文化遺産、人材なども貴重な資源である。地域の中で、資源や経済が循環する持続的社会の構築こそ、行政と住民の共通の課題であろう。そこで行政の責任能力と同時に、住民の地域に対する帰属意識の高まりが求められる。自分の生きている位置と存在感を見定め、新しいコミニュティづくりへ、自在で積極的な参画が望まれる。自治体行政は、そうした市民の主体的な活動の環境を整え、支援する構えが必要である。アクティブな市民社会を創る挑戦は、今始ったばかりである。歴史を読み解き、未来を透視する力量を身につけた職員の日常活動が、大きなカギを握っていると私は思う。