共生社会と自治体の責務

龍谷大学教授 田中  宏


 日本の内なる「反差別・人権」のひとつは、外国人をめぐる問題状況である。戦後長い間、その中心は在日コリアンの問題であったが、1985年のプラザ合意による「円高・ドル安」を目安に、外国人労働者問題が新たに生まれた。主題はこの両者を通ずるものとして考えることが重要である。
 1989年末の外国人登録数は98万人であったが、99年末には155万人に達した。「在日」の登録数は60数万で推移しているのに、この10年間新外国人の増加がつづき、在日の全体に占める比率は70%から40%に低下した。
 入管法の89年改正は外国人労働者問題に対処する為とされたが、その後の意外な変化は「日系人」の急増であった。政府が日系人に限って就労を自由化する政策をとったからである(89年末は2万人弱だったものが、99年末には26万人余に)。その多くは製造業に従事しているようで、愛知県の4万人余、静岡県の3万人余(在日は7,000人弱)が特に多い。99年末統計によると、すでに10県では、ブラジルが在日を上回っており、地域の国際化は急速に進んでいる。
 愛知ではブラジル人少年が日本の少年グループに撲殺される事件が、静岡ではブラジル人女性が宝石店で入店拒否にあう事件がおきた。入店拒否は人種差別だとして提訴され、99年10月、静岡地裁浜松支部は、日本も加入する人種差別撤廃条約を活用して、慰謝料の支払を命ずる判決を言い渡した(確定)。小樽の入浴施設が Japanese only を掲げている問題もクローズアップされた。外国人住民からは「人種差別規制条例」の制定が提起されたという。
 こうした事例は、戦後在日コリアンが味わってきた差別と重ねあわせて考える必要があろう。なぜ「通名」で暮らす在日コリアンが多いのか、なぜ指紋登録が義務づけられたのか、なぜ外国人高齢者は無年金なのか、外国人学校は何故認知されないのか(今では、ブラジル人学校も生まれている)、そして「石原発言」。
 貧しかった日本が送り出した移民が差別冷遇に苦しんだ時、日本政府は「差別される国」として国際連盟規約に「人種差別撤廃条項」を加えるよう訴えた(1919年)。しかし、戦後の日本は、60万の在日コリアン、そして新渡日の人々に対し、「差別する国」として君臨してはいないだろうか。
 「住民投票」が多く見られるが、今までのところ外国籍住民が投票に参加した例は知らない。「国民」と「住民」をはっきり区別するという新しい原理をうちたて、「今と昔」「内と外」という視点から、自国民中心主義、排外主義を克服するなかで「共生社会」を築くべき時を迎えている。住民と至近距離にある自治体の責務は、決して少なくないのである。