「中国人強制連行と花岡事件」に関する取り組み

秋田県本部/大館市役所職員労働組合

 

1. その夜

 「夜遅くに、お寺の鐘がゴーンゴーンとなって、外がさわがしくなったんだ。あまりさわがしくて外に出ると、近所の人達が、『中国人が逃げたんだよ。みんな荷物まとめて逃げる準備しな。』ってさわいでたんだ。」
 「うわさだったんだけど、食べ物もあまりやらず、仕事に行くときは、ぶりっこつなぎで縛って、逃げないようにして働かせたって聞いているよ。死んでしまった人もいるみたいなんだ。だから、みんな心のどこかに、『ひどいことをしてる。』という後ろめたさがあったんだろうね。反対に、こっちがやられるかもしれないって思ったんだよ。」
 当時を振り返った大館市民の証言である。日本国内に強制連行された中国人の総数3万8千935人中、秋田県北秋田郡花岡町(現大館市花南)の鹿島組花岡出張所に強制連行された中国人は、986名であり、連行途中の7名も含め、その約42%に当たる419名が死亡した。「花岡事件」である。

2. 強制連行の歴史的経緯

 日本は、柳条湖事件から廬溝橋事件を経て、中国に対する侵略戦争を公然と開始したにもかかわらず、「事変」という名目を使い、戦争に関する国際法を意図的に無視し、戦争ではないから俘虜は発生しないという論理の下、強制連行を平然と継続してきた。
 侵略先の偽満州国、華北における労働力確保と逼迫する国内の戦時労働力不足に対応するため、北京に華北労工協会を設立し、初めは募集として労働力の調達を開始したが、次第に討伐作戦による連行に依存するようになり、やがては特殊工人と呼ぶ戦時俘虜の強制連行に至った。

3. 花岡における強制連行の実態

 中日侵略以降の軍需体制下で、銅の需要は4倍になり、一方従来の輸入が順次禁止になり、国内の増産が迫られた。花岡鉱山にも当時の岸商工大臣が訪れ、増産を鼓舞し、その土木工事部門を鹿島組が請負った。
 鹿島組花岡出張所への強制連行の特徴は、前述の如く、連行された986名中、419名が亡くなるという死亡率の高さと死亡数の多さであり、これは厳寒の地にあっても寒さと飢えを凌ぐには程遠い衣食住しか供されないばかりか、極度に劣悪な衛生状況の下、限界を超えた苛酷な労働を強い、あまつさえ補導員からは筆舌に尽くし難い虐待と凌虐の限りを尽くされた結果にほかならない。
 このような想像を絶する状況に加え、蜂起の10日前からは一層の長時間労働が課せられ、このままでは座して死を待つしかないと虐待に耐えかねた中国人らは、人間の尊厳を守るために、労工隊の大隊長であった耿諄の指揮のもと、1945年6月30日夜一斉に蜂起し、4人の日本人補導員と1人のかねてから恨みをかっていた中国人を殺害して逃走し、獅子ケ森の山上に至った。
 しかし、一斉蜂起の翌日には延ベ2万4千人を超す憲兵、警察官、自警団らによって捕らえられた。中国人たちは連れ戻され、花岡町の共楽館前の砕石か敷かれた広場にひざまずかされ、3日3晩、飲食物を与えられることもなく拷問を受け、連日30度を迎える炎天下の日差しに晒され、百余名が亡くなった。
 共楽館周辺では大勢の住民がこの場面を目撃したが、この有り様が外に漏れるのを恐れ、新聞社に記事を差し止めさせ郵便局から発送される郵便物も検閲されたという。
 連行した中国人のうち、首謀者として13人を戦時騒擾殺人罪として送検し、11人が起訴され、敗戦後の9月11日、無期懲役1人を含む判決が秋田地方裁判所で下された。
 1945年10月7日、アメリカ軍が進駐、花岡を訪れ、中山寮の惨劇が発覚した。棺箱から手足のはみ出している死体を見て、アメリカ軍将校はその日の内に詳細に調査を始め、こうして「花岡事件」が明らかになった。
 そして、その場でアメリカ軍は、鹿島組の関係者を取調べ、7人を秋田刑務所へ収容し、2年半後、BC級戦犯を裁く横浜裁判で終身刑1人、絞首刑3人等6人に判決を下した。
 秋田裁判の判決は、連合国軍の進駐後、その効力が否定され、中国人たちは釈放された。
 また、横浜裁判の判決は、日本政府に引き継がれているが、6人とも間もなく減刑され釈放されている。
 死亡した中国人たちの死体の処置は、火葬が大変なので、大きな穴を掘って埋めたままとなっており、それでもまだ死体が残っていた。埋められていた死体は、アメリカ軍の立ち会いのもと、向かい側の谷にある小高い山(鉢巻山と呼ばれる)や大穴の死体を発掘したものと共に焼いた後、4百余りの木箱に誰の骨と判別することなく分けて入れた。鹿島組はこの4百余りの遺骨を花岡町信正寺に搬入し、住職は遺骨を安置し、供養を続けた。

4. その後の経緯

 花岡事件は、いくつかの側面で対外的には知られずに経緯した。前述のように、報道管制により情報操作を行ったこともあるし、地元における加害意識も大きかった。花岡事件は、地元にとっては「負の遺産」であり、語らないことが通例となって行った。
 そんな中、1946年『社会評論』7月号誌上で中国人俘虜を診察した高橋実医師が、民間人として初めて花岡事件の全容を明らかにし、49年には、地元の朝鮮人連盟に属する2名が、中国人の遺骨が散乱しているのを発見、留日華僑民主促進会に連絡した。これを契機に、信正寺蔦谷道師は鹿島に要請し、4百余りの木箱を埋葬し、供養塔を建てさせた。留日華僑民主促進会は日本共産党秋田県委員会の協力で現地調査を行い、調査結果を発表。これが中国人強制連行を日本国民に知らせた最初の報道となる。
 翌50年、華僑留日同学会生が花岡を訪れ、地元の民主団体の協力で姥沢の大穴から遺骨8箱分を発掘し、信正寺に安置。地元の慰霊祭と東京でも全国合同慰霊祭が開催されるが、占領軍の不許可で遺骨引渡しはできなかった。
 51年、地元で行政と住民による慰霊祭を開催。多くの町民が参加し、次第に理解が拡がり、全国的にも知られるようになってきた。
 遺骨は、1953年、総評、日本仏教連合会等の国民運動の結果、送還が決定した。
 この後、1960年に再度鉢巻山周辺で朽ちた木箱に入った遺体が発見され、63年6月には9日間にわたり、全国に呼びかけた「一鍬運動」を展開。5百名を超す平和民主団体からの参加者の手で、12箱の遺骨を収拾した。この時、中国殉難烈士慰霊之碑が建立され、現在もその碑の前で大館市主催の慰霊式が毎年実施されているが、このときも慰霊祭が行われ、遺骨は無言の帰還を果たした。
 そして、1966年には、全国に呼びかけ、労働組合等の団体が毎戸訪問によるカンパ活動を展開し、市民運動の結晶として、「日中不再戦友好碑」を中山寮を見下ろす小高い丘の上に建立した。

5. 今日的課題と状況

 花岡事件は、発生後55年を経て、現在生存者遺族と直接的加害者である鹿島との裁判闘争が大詰めを迎えている。
 1967年、花岡町は合併して現在の大館市になり、町が主催してきた慰霊式は、大館市に引き継がれ、一部市民団体が運動として慰霊活動は継続して来たものの、時と共に風化は進んで行った。こうした流れに歯止めをかけるべく、若い労働者を中心として獅子ケ森登山をしながら事件を語り継ぐ早朝行動が開始された。
 そして、自治労の組織内候補・革新畠山市政は、平和運動の一環として花岡事件40周年にあたる1985年6月、行政が主催する大規模な慰霊式を開催、この問題が改めて脚光を浴び、一定の市民権を得るきっかけを作った。この後、次々と中国国内で生存者遺族が発見され、労働組合や市民から成る現地実行委員会が毎年開催する一連の6.30の現地行動に参加し、市主催の慰霊式にも参列。多くの市民と交流を積み重ねて来た。
 いま、歴史認識を曲解しようとする様々な動きが顕著になって来ており、地元にも相変わらず暗い過去としてこの事件に背を向けようとする風潮は根強いが、これらの取り組みを通じて幾つもの交流が芽生えた。
 事件発生から50年目の95年、当時の土井衆議院議長を迎え、節目の式典を実施し、今後も市が慰霊式を継続することにより事件を風化させないことを確認したが、その同じ時、同じ場所で、生存者の耿諄大隊長達と一斉蜂起で殺害された補導員の遺族が、運動に携わる方々の粘り強い説得により、恩讐を超えて心を通わせるという歴史的和解が実現した。
 また、初めて来日した遺族の1人は、実行委員会主催の「証言を聞く会」で、「私は日本を大変恨んでおり、無理にやって来たが、こうして来てみて大きく考えが変った。今回来日しなければ、日本を恨んだまま死んだだろう。」と語っており、地元から証言をして<れた方々や通訳として参加された人々からの、事実を知り、事実を語る事で心を開き、気持ちを通わせ、貴重な体験をしたという声と合わせ考えるとき、この取り組みの大切さと正しさを再認識せずにはいられない。
 55年目の今年、期せずして市内の高校放送部が花岡を題材とし全校大会に選出され、6月末には市内全高校が花岡を主題とした演劇を鑑賞、修学旅行で花岡を訪れる県外の学生も年々増えている。関係者の高齢化が進む昨今、若年層にもこの課題が着実に浸透していることに燭光を見い出し、今後も花岡事件の現地で、国内では数少ない侵略戦争の加害者の側からの平和運動として、こうした出来事を繰り返さないためには積極的に平和を希求して行くことが重要であることを、外に向かって訴え続ける街を目指したいと思う。

◎参考文献
 (1) 『訴状』鹿島花岡中国人強制連行損害賠償請求事件(訴訟代理人新美隆ほか)
 (2) 大館市史第3巻下第5章第3節
 (3) 花岡事件50周年記念誌(花岡の地日中不再戦友好碑をまもる会編)
 (4) 甦生する六月 '97、 '98、 '99(花岡事件6.30現地実行委員会編)
 (5) 中国人強制連行のためのいくつかの緊急課題(猪八戒著)
 (6) 大館市平和祈念事業記念文集 '95
 (7) その他出典の不明なものも含まれております。