新沖縄県平和祈念資料館改ざん問題

沖縄県本部/沖縄県職員労働組合 

 

1. はじめに

 今、沖縄の「平和行政」がおかしい!
 97年11月県知事選挙が行われ、保守系候補の稲嶺恵一氏が、現職の革新統一候補大田昌秀氏を破り初当選した。当時最も大きな政治的焦点は「普天間基地の県内移設」容認か、反対かであった。同年2月、当時の知事である大田氏は名護市辺野古沖への県内移設を認めないという姿勢を明らかにした。このことは、それまで経済振興策等異常とも思える沖縄への金のバラ巻き等で理解を求めようとした日本政府の怒りを買うこととなった。以後、政府は11月の知事選挙に向けて内から外からありとあらゆる手段を駆使し「打倒大田」を果たそうとする。結果、知事選挙は保守系候補の稲嶺氏を擁立し、問等無用の物量選挙が展開され、公明党の水面下での協力も手伝って、稲嶺氏の勝利に結びつくこととなった。当時の政府の喜びようは尋常ではなかったという。
 政府の後押しを受けた稲嶺知事は、移設先のヘリ基地は15年の使用期限を設けること等を条件に受け入れを表明する展開となっているが、どこまで政府に突っ込んでいけるのか当初から疑問が持たれていた。そして、その疑問は別の形で明らかになる。
 本レポートは、99年8月から10月にかけて、県内で大騒動となった沖縄県平和祈念資料館及び八重山平和祈念館の改ざん問題について、時系列的にまとめ報告することとする。

2. 沖縄平和祈念資料館及び八重山平和祈念館とは

(1) 沖縄平和祈念資料館(以後「平和資料館」と呼ぶ)
  1975年、沖縄県糸満市に建設された平和資料館は、開館当初、展示内容が牛島満司令官の遺影など日本軍の遺品を中心とした展示で構成されていた。
  そのため、県民や研究者の間から批判が起こり、78年に住民の視点に立つ展示に切り替えられ、現在に至っている。沖縄戦体験者の証言を活字にした「証言の部屋」を設けたのが同資料館の大きな柱となっていた。
  資料は、展示資料2,000点、収蔵資料1万点、弾丸貫通の跡が残る子供の着物、軍の内務規定、米軍タオルで作った衣類やパラシュートで作ったウエディングドレスなど多岐にわたっている。
  今年4月に新しい平和資料館がオープンし現在に至っている。

(2) 八重山平和祈念館(以後「八重山祈念館」と呼ぶ)
  第2次世界大戦中、日本軍は八重山郡民にマラリヤ有病地域であることを熟知していたにもかかわらず軍の戦闘作戦上やむを得ないとの理由で住民をマラリヤ無病地域から有病地域へと強制退去させた。その結果多くの住民がマラリヤでその尊い命を失っていった。地元の住民はこの事を「八重山戦争マラリヤ」と呼んでいる。
  その後1989年「沖縄戦強制疎開マラリヤ犠牲者援護会」を結成、国に対して保証を求める運動を展開する。また、県においても「マラリヤ犠牲者遺族に関する実態調査及び証言収集調査」を実施している。その結果を受け、1995年12月の通常国会で「マラリヤ慰謝事業」として3億円を計上し、可決された。その事業の1つとして「八重山祈念館」が設立された。同祈念館の基本理念は「「戦争マラリヤ」の実相を後生に正しく伝えるとともに、人間の尊厳が保証される社会の構築と、八重山地域から世界に向けて恒久平和の実現を訴える「平和の発心拠点」の形成を目指す」となっている。同館は今年5月に開館している。

3. 事件の内容と推移

(1) 問題が最初に発覚したのは県内の新聞報道であった。8月11日「琉球新報」朝刊に、1年後の開館に向けて準備作業をしていた新平和資料館の展示部門について、展示内容を決める監修委員の承諾を得ぬまま壕の復元模型の一部の内容を変更していたことが明らかにされた。問題の部分は、「ガマ(壕)での惨劇」と題し、証言を基に実際に起きた壕での出来事を実物大の模型で表現する展示計画となっている。壕の模型は「住民の避難生活」「負傷兵の看護と自決の強要」等の場面が表現されている。当初の説明書によると「住民の避難生活」の場面では壕の中に十数人の住民が座り、左側に「銃を構え母親に幼児の口封じを命じる日本軍兵士」となっている。「負傷兵の看護と自決の強要」の場面では、負傷兵を看護する婦長や毛布を掛けられた遺体等とともに青酸力リ入りのコンデンスミルクを入れた容器を持った日本兵が描かれている。ところが、その後に製作された図案では銃を構えて立っていた日本兵が何も持たずに立っている表現に変えられ、自決強要の日本兵については壕の中からそっくり消えてしまっていたのである。
(2) このことを知った監修委員は、早速県に対し「政治的な理由で無断で変更されたとしたなら絶対に受け入れられない。早急に監修委員会を開催するように」と不満を訴えた。これを受けた県の担当課は、監修委員会の最終決定を尊重する立場を示し、知事も「最終的には監修委員会の問題となる」と述べている。
(3) 8月13日文化国際局次長が、「私が変更を指示した」事を明らかにした。その際、「作業途中の段階であくまでも検討内容。決定ではない。」と述べる。
(4) 8月30日、「戦争マラリヤ」の実相を伝える八重山祈念館においても監修委員の決定後に行政指導で一部変更を行おうとしていたことが明らかになった。変更は集団自決とみられる写真の展示を取りやめようとしたもので、開館前(4月頃)に複数の監修委員に展示見送りを伝えたところ反発を招いたため写真そのものの取り外しはやめ、写真説明から「集団自決」の文言をはずして展示することになった。また、鎮魂の想いを込めた歌「星になった子供達」を歌う波照間小学校の児童等の写真についても、担当者が「あの写真を祈念館に飾る意味が分からないと上司が言っている」としてはずす方針を伝えたが、これも3週間後に方針が変わって展示されることになった。さらに、その後、展示内容の説明文も監修委員や専門員の知らないところで変更されていたことが明らかになる。このことについて、監修委員から「平和資料館と本質的に同じ問題だ。これでは県は信用できない。」という批判が相次いだ。
(5) 9月1日、県内マスコミの調べで、稲嶺知事が変更指示をしていたことが明らかになった。3月の担当者からの説明報告の場で「国策を批判するような展示はいかがなものか」と述べ、国の政策を否定しないとの一定の方向性を示していたことが複数の関係者の証言でわかったという。さらに「県政が代わったことだし、展示内容が変わるのは当然でしょう。県立資料館だし、国策を批判するようなことはいかがなものか。(監修委員会だけでなく)行政としてフォローしないといけない」と話していたことがわかった。これについて、知事は、9月6日の定例記者会見で発言内容について「言っていない」と全面否定している。
(6) 9月16日、八重山記念館の展示写真説明文で、県は監修委員や専門委員の相談なしに「強制退去」「退去」の語句を「避難命令」「避難」等に差し替える作業を進めていたことがわかった。「強制退去」は住民に対してマラリヤ有病地域に移動するよう日本軍が発した強制退去命令を指す語句で、同祈念館の基本理念でも退去命令を「踏みにじられた人権の歴史」と位置づけ、その「実相を後世に正しく伝える」ことをうたっている。1992年県が委託調査した「戦時中の八重山地域におけるマラリヤ犠牲の実態」報告書において、戦時作成された「県民指導措置八重山郡細部計画」に「退去」の規定が記されていることを挙げて「この細部計画によってマラリヤ地域への住民の移動が軍命によるものであったことは明白であり、この計画通りに強制退去が実行されたのである」と結論づけている。この「軍命」が国に同祈念館を建設させる決め手となっている。監修委員長は、「国の命令による強制退去の事実は、遺族の血のにじむような作業と調査を依頼された研究者によって立証した。それを県が根底から覆そうとするもので絶対に許されることではない。」と県の行為を批判した。それについて、県担当課は「他意はなかった」として事実を認めている。
(7) 9月19日、同年3月段階の監修委員会了解済みの展示内容原案に、県担当課が作成した追加や削除などの変更事項を記した「見え消し」と呼ばれる内部資料の最終案が明るみにされた。これによって、「検討段階」とする説明とは違い、監修委員不在で大幅な変更作業が着手直前になっていたことが明らかになった。これについて知事は「政策参与に事実の調査を命じており報告書があがってから話す」と答えている。
(8) 9月27日事実関係を調査していた政策参与の報告を受け、知事は次のように説明した。一連の問題について、①沖縄戦の実相をゆがめるものである、②その方向性は県首脳の意向を反映したもの、③監修委員会を無視して行われた、④監修委員会の開催回避、内部文書公表の拒否など不適切で不透明な行政手法、等の批判があることを挙げ、その上で、「政策参与の調査結果では、そのような批判や懸念は必ずしも事実を反映したものではない、との結論に達している」。一連の批判は誤解に基づくもので、行政手続き上の問題はなかったとの見解を示した。
(9) 県議会において「見え消し文書は2枚しかない」と言っていた県の議会答弁と違い、その他にも見え消し文書があることがマスコミの調査で判明し、しかも、知事等三役も既に入手していたことも明らかになった。さらに、8月11日の同問題が発覚して以降、委託業者に対して見え消し文書を廃棄処分し証拠隠滅を図っていたことがわかった。この一連の事実判明に、県議会野党は「議会への虚偽答弁は議会無視で看過できない。執行部と議会との信頼関係が崩れた以上は何らかの責任を取ってもらわなければ開会に応じられない。」と主張、議会は空転した。その後野党は全体会議を開いて対応を協議、その結果、①議会の権限無視の責任、②同問題での経過の詳細と全ての文書の公開、を求める文書を議長に手渡している。
(10) 議会はその後、過半数与党の開会採択で野党全員欠席という異常事態の中で進められていたが、見え消し資料の公表と委員会への副知事の出席という形で一応の決着をみた。
  9月7日、県議会文教厚生委員会で出席を求められた副知事は、一連の問題について、「この間、議会や県民に不信感を与えたことをこの席でお詫びしたい」と陳謝した。その中で、3月の三役説明の場で、三役が様々な意見を述べたことに「事務方としてこれを重く受け止め、検討作業を始めたと理解している」と述べ、事実上、現場が三役の意見を指示と受け止め、変更作業に入ったことを初めて認めた。
(11) 議会において配布された見え消し文書等一連の資料を見た野党議員は一様に驚きの表情を隠さなかった。「沖縄の歴史の中で、保守県政でさえ一度もやったことがない沖縄戦の改ざんをこれほど進めていたとは」「議会で“存在しない”といわれてきたものがこれほどあるとは」「見え消しは明らかに政治的な意図を含んでいる。知事は政治的、倫理的な責任を自ら明らかにするべきだ」等々、語気を強めた発言が相次いだ。
(12) 10月14日、稲嶺知事は、「私と前知事とは平和観や行政についての基本的な姿勢に違いがある。」と前置きした上で、三役が3月と7月に3度にわたって説明を受けた場での発言については「私はどれをどうするかという具体的な指示をしたことはない。指示という認識は全くない。(一連の責任の所在の問題については)私自身は監修委員会が全て決めると思っており、それまでの作業段階の事柄がここまで問題になるとは思わなかった」と述べ、責任の所在は明らかにしなかった。その一方で、一連の問題は「大変遺憾だ。これからは中身を広く積極的に公開して、資料館の作業を早く進めることに全力を尽くすことでご心配かけたことを力バーしたい」と話している。
(13) 一連の事件は、この後監修委員会の再開と同委員会への全面的委任という方針により、知事が責任の所在を明確にしないままの歯切れの悪い状態ではあったが、ひとまず落ち着いた。
  また、入れ替わるように発生した普天間飛行場の名護市辺野古沖への県内移設にマスコミの取り扱う問題の比重が大きく移動したことも同問題に対する県民の関心の急速な冷え込みにつながった原因ではある。

4. 問題の総括と今後の課題

(1) 自治労の取り組み
 ① 担当課に組合員を抱える県職労は、事件が発覚した直後から素早く対応を検討し、8月19日に、(ア)展示内容変更を絶対に行わないこと、(イ)監修委員等の活動を保証すること、を県当局に要請した。その後、350枚の立て看を職場周辺に設置し、組合員の同問題への意識醸成等周知徹底を図る取り組みを行った。
 ② 自治労県本部は、県職労とタイアップして県議会の推薦議員と常時連絡を取り合いながら、県議会における情報の開示を展開させた。また、10月6日には、担当部局長に抗議決議文を手渡すとともに同問題に関する情報の公開を求めている。抗議決議文は、(ア)戦争行為に対する知事の姿勢、(イ)平和資料館と八重山祈念館の展示内容変更の経過、(ウ)資料館の運営姿勢、を県民に明らかにすることを求めている。
 ③ 那覇市職労と県職労は、10月14日昼休みに緊急抗議集会を開催し、その後県庁一週デモを行った。その後改めて、県民に不信感を与えた知事の責任と組合員の過重労働を軽減するよう申し入れをした。これに対し、文化国際局長は「上からの感想や意見を事務方は重く受け止めた。指示というものではない」と三役の関与を否定し、展示変更はあくまでも事務方の作業段階であることを強調した。議会で三役の関与を認めているにも拘わらずこれと矛盾した回答がなされたのである。県職労は、これに対し「県職員であれば知事の意見を指示と認識するのは当然のこと。上司からの言葉通りに仕事した後で責任を取らされてはたまらない」と反発している。
 ④ 責任の所在をうやむやにした知事の姿勢は、県庁に働く行政マンの視点から見ても絶対に許されてはならない。また、これからも似たような問題が起きる可能性が高いことから、自治労は今後もこのような姿勢に厳しく対処していくことが必要である。

(2) マスコミの対応
 今回の一連の問題に最も大きな関心を持っていたのは他ならぬマスコミ関係者であった。8月11日の事件発覚から一応の決着をみた11月12日までに連日のように報道がなされ、地元新聞2社は総計約160回に亘る報道を行っている。「内々で同問題の動きを追っていたら途中で怖くなってきた。このままほうっておいたら沖縄の未来が間違った方向に行ってしまうのではないか。これは何とかしないといけないと思った。」当初問題を取り扱ったマスコミ関係者は、このように述懐しているという。マスコミとしての責任感がこのような勇気ある行動を生んだともいえる。一方、行政関係者の中には「今回の報道には、マスコミの政治的な意図とそれに伴う情報操作があったのではないか。」と懐疑的な見方をする者もいる。
 今回のレポートは紙面の都合上大きな動きのみの報告になったが、地元マスコミ報道の中心は、事件が明るみに出るたびに不満を訴える監修委員等とちぐはぐで一貫性のない答弁を繰り返す行政のやりとりであった。事の真相がどこにあろうと、程度の差はあろうとも、現在の県幹部が意図的に沖縄戦の実相を歪曲しようとしたことだけは事実である。この事は連綿と続いてきた沖縄の人々の平和運動、そしてそれに込められた願いや感情を根底から覆そうとするものであり、絶対に許されるものではない。

(3) 平和団体等の取り組みと今後の展望
 幸い、騒動の期間中、多くの民主団体が、抗議行動、アンケート調査、フォーラムを連日のように開催するなど数多くの様々な取り組みを行ってきた。新聞報道だけでも抗議行動が10回。シンポジウム等が4回開催されている。特に高教組が実施した高校生への意識調査では、半数以上が「沖縄戦の実相は正しく伝えるべきで変更はおかしい」と回答、変更指示は5.5%に過ぎなかった。(知らないという回答もかなりの数に上っている)。さらに琉球新報と毎日新聞の世論調査においても80%以上が「実態をありのままに伝えるべき」と答えている。
 このような一連の取り組みと意識調査の結果は、平和に対する沖縄の県民の想いが遺伝子として幾世代にもわたって深く浸透している事を証すものであろう。今後の平和運動の大きなうねりを創り出す糧となり励みとなるものである。