上山市平和事業の取り組み

山形県本部/上山市職員労働組合

 

1. 上山市の平和事業のあゆみ

・1987年  「平和都市宣言」採択
 ◆上山市平和都市宣言◆
   世界の恒久平和は、人類共通の願いである。
   しかしながら、世界の各地で、いまなお武力による紛争が絶えず、核兵器の拡大が憂慮され、人類の生存に深刻な脅威を与えている。
   我が国は、唯一の核被爆国として、核兵器の廃絶を強く訴えなければならない。上山市は、戦争のない、永遠の平和と繁栄を希求し、ここに平和都市を宣言する。
・1991年  第1回上山市民平和の集い 開催~第9回を経て現在に至る
・1995年  市役所玄関前に「平和の像」を建立、「核兵器廃絶平和都市宣言」採択
 ◆核兵器廃絶平和都市宣言◆
   世界の恒久平和は、人類共通の願いである。
   しかしながら、世界の各地で、いまなお武力による紛争が絶えず、核兵器の拡大が憂慮され、人類の生存に深刻な脅威を与えている。
   世界唯一の核被爆国として我が国は、緑豊かな美しい地球の滅亡のみをもたらす核兵器を永遠に廃絶し、また戦争の惨禍が再び繰り返されることのないよう、国の内外に訴えていかなければならない。
   ここに上山市は、核兵器の廃絶と恒久平和を希求し、核兵器廃絶平和都市を宣言する。

2. 平和運動(平和の集い)のあゆみ

 1987年、いわゆる、中曽根行革・土光臨調の嵐の真っ只中の4月に、統一地方選挙があり、上山市職員労働組合から当時副委員長の吉田 明氏(当時36歳)が市議会選挙に立候補しました。立候補に際しては、組織を挙げての議論の末、行革に対抗するには組合対当局の構図だけでは限界があり、組織内議員を擁立して、議会活動を通して影響力を行使していくことが確認されました。
 結果は、トップ当選(連続3期)を果たしましたが、その後、組織内議員として反行革闘争に止まらず、上山市の平和運動についても積極的な役割を担っていくことになりました。
 その年の7月の市長選では、現職の永田市長と上山地区労として政策協定を結び、平和運動のさきがけとして、選挙後の7月臨時議会(7月28日)で市長提案による「上山市平和都市宣言」へと結実することができました。
 その後、地区労と社会党で組織する市政共闘会議が、市長選時の政策協定に基づき年4回の定例議会前に市長との定期協議をするようになり、その場において、平和政策の一環として、「平和都市宣言」にふさわしい具体的な事業を実施するよう申し入れを続けました。
 その結果、時間はかかりましたが、平和の貴さを広く市民にアピールするため、実行委員会を結成して、「第1回上山市民平和の集い」を1991年10月5、6日に開催することができました。
 「上山市民平和の集い」は、
 第1回目は、
  ① 平和のための戦争展
  ② 女性市民の皆さんによる朗読劇「この子たちの夏」の上演
  ③ 市民平和コンサート
  ④ 親子の思いでコンサート
と2日間で4つの事業を実施しました。
 実行委員会は、地区労、地区労加盟単組、社会党、共産党、平和団体から平和懇話会、文化団体から上山吹奏楽団と女性コーラス上山こまくさ、農業団体から上山農談会、労働福祉団体からろうきん友の会で組織されました。
 はじめての取り組みで短期間の練習ではありましたが、市民の手による朗読劇「この子たちの夏」は入場者の共感を呼び涙を誘う企画となりました。
 また、「平和のための戦争展」は、元憲兵の土屋芳雄さんが主宰する平和懇話会の方々を中心に、多くの市民からの提供による戦争にまつわる品々が展示され、マスコミにも取り上げられるなど市内外に大きな反響を呼ぶものとなりました。
 平和のための戦争展はその後毎回、テーマに合わせて多彩な展示をしています。
 第1回目の総括としては、盛り沢山な企画でなくポイントを絞ることと、市民への広がりを更にもう一歩進めることが第2回への課題でした。
 第2回目は、92年9月に、PKOがらみの自衛隊カンボジア派兵問題が激しく論じられたことを受け、「カンボジアの平和を考える」をメインテーマに、カンボジア民族舞踏(写真)とパネルディスカッションを実施しました。
 この企画には、JVC(日本国際ボラティアセンター)の協力を得て、在日のカンボジア難民7名と実際カンボジアで援助活動をしているJVCスタッフが来市、彼らの生の声を聞きながら、カンボジアの内戦の悲劇、その後の国際社会の関わり、PKOと自衛隊の援助のありかたを学びました。
 また、アンコールワットに代表されるカンボジアの文化に触れるべく、在日のカンボジア難民の手による、見事な伝統舞踊も披露され、黄金色の衣装やしなやかな指使いに多くの観客が魅了されました。
 第3回目は、94年1月に、細川首相が訪韓し日本の首相としては初めて侵略戦争と戦争責任を認め謝罪したことを受け、韓国の文化や従軍慰安婦問題を通して、アジアの平和と国際友好考えることをテーマとしました。第1部「韓国のうたと民族舞踊」(写真)、第2部シンポジウムの構成で開催されました。
 第1部は、韓国の大学で勉強された、声楽家の戸田ゆき子さんを招き、地元のコーラスグループと一緒に韓国の歌を唄い、山形市在住の韓国人舞踊家、中村ヒャンスさんが踊るという企画で、韓国の文化に親しむ機会を市民に提供しました。
 第2部では、早稲田大学教授の中原道子さん、慰安婦問題に詳しい作家の川田文子さん、韓国挺身隊問題対策協議会に関わっているソウルの東国大学講師の山下英愛さんを招き、従軍慰安婦問題に正面から焦点を当て、真実の姿を市民に伝え、私たち日本人が取るべき道を示しました。
 第4回目は、94年12月に、「東京大空襲」著者の早乙女勝元さんの講演と、ベトナム戦争の悲劇の実話をもとにした同氏の小説を映画にした「ベトナムのダーちゃん」を上映しました。改めてベトナム戦争の悲惨さに思いを馳せるとともに、平和の尊さを実感させられる企画でした。
 第5回目は、95年12月に、原爆を描いた映画「おこりじぞう」の上演と、シンポジウム「理解を深めようアジアの中の日本」を開催しました。
 このシンポジウムでは、日本女子大の高木郁朗教授をコーディネーターにし、在日韓国人の權純縣さんと宮城県大林寺の住職、斎藤泰彦さんに出演していただき、日本人が国際社会の中で、とりわけアジアの中でどういう生き方をすべきかを考えました。(写真)
 權純縣さんからは、日本人に対する在日としての思いを語っていただき、斎藤住職からは、韓国の英雄「安重根」と「安重根」の看守を務めた、日本人憲兵、千葉十七の心の交流を通して、日韓交流の将来像を提言していただきました。
 私たちの固定した世界観、考え方に対する違った形での視点は大変興味深いものでした。また、始めての企画として、市民から原稿をいただき戦争体験を後世に残すための記録誌として~私たちの戦争体験第一集~「平和の祈り・子や孫に語りかける戦争と平和」を発行することができました。いわゆる戦地での直接体験だけでなく、戦闘に参加しなかった方から、銃後の護りとして当時の日常生活のご苦労ぶりや思い出などを記録しておきたいということで企画しました。短い期間の中ではありましたが、多くの市民の方々のご理解の下、原稿を寄せていただき立派な内容の記録誌となりました。
 更に、この年には平和運動のモニュメントとして、市役所玄関前に「平和の像」を建立と、「平和都市宣言」から、さらに内容が深まった「核兵器廃絶平和都市宣言」を採択することができました。
 第6回目は、96年10月に、演劇「悔悟の記録」~ある憲兵の物語る~が上演されました。群馬県の劇団「なんじゃもんじゃ」が上山市内に在住している元憲兵の土屋芳雄さんの体験を劇にしたものです。
 今年90歳の土屋さんは憲兵として旧満州で敗戦を迎え、戦犯としてソ連に5年、中国に6年間抑留されて、昭和31年に復員されました。
 土屋さんは中国で行った拷問などの残虐行為について、自らを戦争犯罪人と名乗り、自分の犯した罪の大きさを内部告発し懴悔しながら各地で講演し、平和への尊さを訴え続けています。土屋さんは、平和の集いの中心的役割を担ってきた方で、正に侵略戦争の生き証人と言えます。
 また、この年は、~私たちの戦争体験第二集~「平和の祈り・子や孫に語りかける戦争と平和」を発行しました。第一集同様身につまされる内容に、平和で生きられることの貴さを改めて感じさせられる秀作となりました。(写真)
 第7回目は、97年12月に、映画「月桃(ガマ)の花」を上映しました。「がま」とは沖縄で鍾乳洞を意味する言葉です。戦前は風葬の場所として知られる程度で、普段は人の出入りするところではありませんでしたが、沖縄戦のさなかには、県民の抵抗の最後の砦として機能しました。戦火が止んだ時、喜屋武半島のガマからはおよそ8万人の避難民が這い出てきました。
 第8回目は、98年12月に、映画「南京1937」を上映しました。
 前段に「南京大虐殺」の背景について山形大学の木村教授から講演していただき、その後、右翼による上映妨害で話題になった映画「南京1937」を上映したのでした。右翼が妨害するだけあり、その中身は侵略の姿を生々しく伝えた映画でした。
 日中戦争の中でも上海、南京をめぐる攻防は激烈を極め、国民党の首都南京を占領した日本軍は、まさに狂気ともいえる破壊や略奪を尽くし、30万人にものぼる虐殺を引き起こしました。(写真)
 第9回目は、2000年2月に、写真家の石川文洋さんを招いて、「報道写真家石川文洋がとらえた戦争と平和」を開催しました。
 従軍カメラマンとしてベトナム戦争に従軍したのを契機に、カンボジア、ニカラグア、サラエボ、ソマリアなど長年世界各地を回り、また出身の沖縄についても長年記録をとり続けています。生の写真と従軍写真家としての肉声は、見る者、聞く者に圧倒的な迫力をもって迫ってきました。石川さんは、戦争を美化する者、戦争を知らない人に「戦争の真実の姿」を伝えることが私の役目と言います。戦争は破壊しかもたらさない、ということを改めて肝に銘じた次第です。(写真)

3. 最後に

 戦後世代が市民の過半数を超えた今日、戦後の悲惨さ、戦後の苦難などを知っている人数が少なくなっています。いわゆる体験の風化と同時に、平和の尊さだけでなく、人の命の重ささえ軽んじる風潮が感じられます。
 戦争は、一人ひとりの意思を否定し強制的に戦時体制に組み込みます。個人の権利の尊重より、国家・集団の権益を優先するものであることは過去の歴史が証明しています。いつか来た危険な道をたどることのないよう、市民に対する意識づくりは大事なことです。
 「住民の安全、健康及び福祉を保持する」という日本国憲法の本旨から、「平和」は総てに優先して実現すべき課題であるはずです。しかし、冷戦時代の終焉を迎え、真の平和を構築しなればならない今日、必ずしもわたしたちの願いどおりの平和施策には未だなっていません。
 個人の権利を主張できない、おかしいことがおかしいと言えない「空気」が作り上げられる、そのような不幸な時代を再び繰り返さないよう、歴史に学び、「平和」のための草の根運動を積み重ねることが大事だと思います。
 そして、私たちの身近に、大変なご苦労をされた方々が大勢いらしたこと、「命の次に大切なものは金」ではないということ、「生きる」ということの大切さを「平和の集い」の取り組みを通じて教えられました。