千歳川放水路を止めた!

北海道本部/苫小牧市役所職員労働組合・自治研推進委員会


1. はじめに

 1999年3月14日、新聞は「千歳川放水路計画中止へ」と大々的に報じた。計画発表以来既に17年、苫小牧市民に対する説明会が開催されてからも15年の歳月が流れていた。この間、反対運動に携わってきた我々は、深い感慨を覚えないわけにはいかなかった。思えば、長く、困難なたたかいを続けてきたものである。
 本レポートは、千歳川放水路という、いま全国的な課題となっている大規模公共工事に反対するたたかいを地域生活圏闘争としてたたかってきた我々苫小牧市職労の運動を総括する前提として、その役割の一端を担ってきた苫小牧市職労自治研推進委員会の活動を振り返るものである。
 まずもって、千歳川放水路計画の内容を紹介しておきたい。

2. 千歳川放水路とは

(1) 千歳川放水路計画の誕生
 1981年8月、台風12号と前線の影響で、北海道の開拓が始まって以来最大の大雨による大洪水に見舞われ、千歳川流域では、約2,800戸の家屋が浸水被害を受けた。この災害を契機として、北海道開発局は、石狩川水系工事実施基本計画を改定し、ここに千歳川放水路計画が登場したのだった。
 改定された石狩川水系工事実施基本計画の内容は、150年に1度起こる(150年確率)洪水時に毎秒18,000トンの水が石狩川を流れるものとし、そのうちの3,000トンをダムや遊水地で、1,000トンを千歳川放水路(発表当時は「太平洋放水路」と呼ばれていた)によって処理し、石狩川を流れる水を14,000トンに抑えるというものだった。
 千歳川は、江別市で合流する石狩川の一支川である。通常は石狩川に合流しているこの川を、洪水時には石狩川と遮断して上流に逆流させ、苫小牧を通して太平洋に排水するというのである。そのために幅400メートル、延長40キロに及ぶ放水路を掘削しようというのだ。これに要する費用は、当初2,000億円といわれていた(後に、4,800億円)。

(2) 治水対策としての疑問
 上述のように、千歳川放水路は、18,000トンのうち、わずか1,000トンを処理するために計画されたものである。ところが、この18,000トンという数字に疑問が持たれた。この数字が過大であり、仮に17,000トンと設定するならば、放水路は要らないことになってしまうのである。いや、開発局の当初の説明のように、「石狩川の水が千歳川に逆流し、千歳川の水が石狩川に注ぎ込めずに洪水となった」のであれば、石狩川との合流点の締切水門によって石狩川の水は逆流できなくなり、逆に石狩川は洪水の危険性を高めることにさえなるのである。
 開発局の説明では、「150年に1度の大雨の降り方を予想すると、3日間に260ミリが降り、この結果石狩川に18,000トンの水が流れる」としている。しかし、新潟大学の大熊教授は「開発局は、計算の条件設定において、雨の降らせ方を極端に短時間に集中させている」と批判している。短時間に集中して雨が降り、短時間に川に流れ込む条件で計算すれば、毎秒当りの流量が増大するのは当然である。これまでの最大の洪水実績である81年洪水(3日間に282ミリ)に合わせるならば、14,000トンに修正できるのであり、放水路だけでなくダムすら必要なくなってしまうのである。
 結局、放水路のメリットは千歳川流域の洪水対策だけということになる。確かに千歳川の洪水対策として有効であることは間違いないだろう。しかし、それだけであればあまりにもコスト・パフォーマンスが悪すぎるといわざるを得ない。反対派の学者たちは、石狩川本流の水位低下対策と、千歳川流域における治水対策を効果的に組み合わせるならば、放水路がなくとも放水路と同程度に近い治水効果があると、代替案を提起していたのである。

(3) 放水路による被害
 千歳川放水路は、幅300〜450メートル、深さ海面下1〜3メートルを、約40キロにわたって掘りこむため、自然環境、社会環境にとてつもない悪影響を与えることになる。
 まず、農業であるが、太平洋側から冷風が吹き込み、霧が進入することで冷害の心配がもたれた。
 漁業についてはさらに深刻だった。毎秒1センチしか流れない極端な緩勾配のため、水質の悪化した水が海に流れ出すことになる。洪水時には、千歳川周辺の田畑から土、農薬、植物などを含んだ水が千歳川に流入し、それが放水路を通って太平洋に注ぎ込む。しかも、この汚濁水は真水であるため、海水の塩分濃度の低下を招き、漁業は壊滅的な被害を被ることになる。
 ウトナイ湖は、ラムサール条約(91年指定「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」)の登録湿地に指定されている。このウトナイ湖の約8割の水を供給しているのが美々川である。放水路は、美々川の東側を海面下1〜3メートルも掘りこむため、地下水は放水路に吸収され、美々川やウトナイ湖は乾燥化し、やがては湿原を消失させてしまう。

3. 放水路反対運動の構築

 計画発表に伴い、苫小牧市においても市民を対象とした開発局の説明会が幾度か開催された。我々は、批判的な立場から、環境保護団体とともにそれに参加していったのだが、放水路掘削によって誕生する広大な水面を「新たな自然が生み出される」という開発局担当者の発言に対して、「何と傲慢な発想か!」という驚きの声があがったものだった。
 我々の運動に転機が訪れたのは、87年、当時の放水路容認派の市長に替わり、元市職労委員長である現市長が誕生してからである。89年、市職労定期大会で反対決議をし、地区労に呼びかけ、地区労は翌90年、反対運動の構築を決定し、市民、自然保護団体、労働組合の結集による「千歳川放水路に反対する市民の会」(以下「市民の会」)を結成していった。
 「市民の会」は、早速署名運動を開始し、わずかな期間で人口の半数を超える署名(将来に関わる問題なので、子供の分も求めた署名だった)を集め、市議会に陳情書を提出していったのである。

4. 自治研として担ってきた活動

 反対運動を始めるとなると、署名集めに必要なパンフレットが必要になる。反対集会の実施も企画しなければならない。そうした裏方活動は、自治研の担当となったのだった。
 もともと、市職員、野鳥の会メンバー、新聞記者等がグループを結成し、「森の集い」という名で、北海道大学苫小牧演習林を舞台に親子連れの一般市民を対象とした「森の中で星を見る会」「イグルー(エスキモーの家)づくり」「森の中で童話を読む会」「幌内川への蛍の幼虫の放流」等、種々のイベントを行っていた。当時の自治研メンバーは、全員がこれに参加していたのであり、その過程で一定の人脈やノウハウを身につけていた。自治研が「市民の会」の裏方として活動することは当然のように感じられていた。
 市民集会の企画、札幌等で行われる大小の集会への参加、陳情書・要望書の文案作成などを行った。また、放水路計画の問題点を詳細に記載した「千歳川放水路計画を検証する」も刊行した(増補改訂版も刊行)。この冊子は、反対運動にとって原点ともなる資料となった。余談であるが、多くの研究者からも参考書としてずいぶん活用されたものである。
 93年釧路市で開かれたラムサール国際会議場前では、横断幕をかざしてビラを配布してきた。長良川河口堰反対運動とも連帯し、長良川現地での「川を考える集会」へ代表派遣、東京での「ダムと川を考える集会」での経過報告、さらに道弁連環境部会に働きかけ、日弁連の調査団結成に結実した。
 また、日本野鳥の会が東京で開催した放水路関連の国際会議に対して、「放水路に反対する団体が主催する集会には参加しない」という姿勢を示した開発局を、直後のシンポジウム「徹底検証! 千歳川放水路」に引き出すことにも関与してきた。その後、数度にわたり開発局と反対する科学者のシンポジウムを企画、実施し、計画に対する市民の関心を高めることに努めていった。
 千歳川流域の洪水被災地・恵庭市の農地住民との対話集会も設定した。「千歳川放水路計画に反対する市民の会」の「反対」の文字を出せないような緊迫した雰囲気のなかで、放水路計画の問題点と対案を提起するものだった。
 開始時間となり、講師の高田大阪市立大教授が説明を始める。最初は少なかった聴衆は、時間の経過とともに続々と集まってきて集会室は満席となり、廊下まであふれ、教授の説明が終わり、質疑応答が始まる頃には、廊下も満杯となって部屋を変えて行うことになった。
 しかし、質疑は最初から険悪なムードが漂っていた。最初に挙手した住民は、「私は治水が必要だ、と考える立場から質問する」と放水路に反対する者は治水に反対していると決めつけた立場からの議論である。「吊るし上げ」という言葉が頭をよぎるほどの「対話」となったのだった。
 だが、この恵庭市での対話集会も何度か実施しているうちに劇的な変化を見せる。進まない放水路計画に、そして計画自体が抱える問題点の多さに、農業者自身が代替案に興味をもたざるを得なくなったのだ。「これまで知らされていなかったが、遊水地について教えて欲しい」という発言が多くなってきたのである。

5. 放水路問題構図の変化の経緯

 ここで放水路計画中止にいたる経緯を簡単に振り返っておこう。
 千歳川放水路計画が大きな社会問題となったのは、前述したように苫小牧における地域の反対運動の構築が原因だった。地元社会党、市労連・市職労、地区労の反対運動の推進は、全道レベルにおける対応が求められることとなった。社会党道本部、連合北海道、自治労道本といった全道レベルの組織で内部統一を図る必要に迫られたのである。
 横路知事(当時)を支えていたこれらの組織のなかで主導権を取ったのは、連合北海道であった。広範な労働組合を結集し、政治レベルにおいても最も発言権の強い連合が収拾に乗り出したのは、計画主体である国と積極派・消極派の自治体・住民に挟まれ、身動きが取れなくなった知事の態度決定の露払いを買って出ざるを得なかったと言えるだろう。
 私たちは、自治労道本に設置された「千歳川放水路対策委員会」と連携をとりながら、連合の主催する「検討委員会」に積極的に参加していった。
 連合は、この検討委員会での議論を前に、全国に治水の意見を公募するという新たな試みを行った。ここに応募してきた小野北大教授、高田教授との出会いは、私たちにとって貴重な「同志」を得ることとなったのであり、彼らがその後「反放水路」の論陣を張っていくこととなる。
 連合の「まとめ」は、次のようなものだった。
 @ 放水路のルートを変更し、美々川流域を迂回させる。
 A 当面の洪水対策として、遊水地の設置や内水排水施設を整備する。
 B 気温の変化や霧の発生のおそれがあるので、農作物の生育に関する調査を実施する。
 C 漁業影響評価を行い、影響を最小限にする措置を明確にする。
 D 苫東基地開発計画との調整について協議する。
 こうした「まとめ」は、条件付き容認に近く、私たちの立場からは首肯できるものでは決してなかった。しかし、着工に一定の条件を付すことによって歯止めをかけたという意味では評価し得る点もあった。そして、ここでの結論が知事の立場としても表明されたのだが、美々川・ウトナイ湖の環境保全と漁業者の理解が「前提」とされたのである。この2つのハードルは、開発局にとって極めて高いものであることは明らかだった。こうして計画は再び膠着状態に陥ることとなる。
 状況の転回は2つの方向からやってきた。村山政権の誕生は、放水路計画に影響をもたらすこととなった。五十嵐建設大臣(当時)のもとで、建設省内部にあって既存の河川行政に批判的だったグループが、長良川や多くのダムが膠着状態に陥っている事態を前に、治水のあり方について反省する議論が芽生えたのである。
 そのため、河川審議会で放水路計画に重要な役割を果たしていた高橋裕東大教授(当時)さえも、河川審議会のあり方に対する反省ともいえる改革案を作成、これに沿って河川法自体の改正へと動くこととなったのである。
 もう1つの動きは、バブル崩壊以降の財政危機とそれを契機とする省庁再編の動きである。
 97年度予算では、それまで計上されていた調査予算(すでに延べ25億円を費やしていた)の計上が見送られ、時を同じくして北海道開発庁の国土庁との統合が日程にのぼってきたのである。
 こうした状況下で開発局からは、「円卓会議の設置」「白紙撤回をも前提」といったアドバルーンが次々と上げられた。しかし、円卓会議は、放水路建設による受益住民と「受苦」住民同士が直接対決し、開発局が調整するといった構図をつくり上げようという意図は明白であり、放水路計画の延命を図るものであった。「市民の会」をはじめとする反対する諸団体は、当事者責任を放棄するものであるとして、不参加を表明した。
 当事者能力を喪失した開発局は、知事に「検討」を委任することになる。これを受けた知事は、諮問機関として「千歳川流域治水対策検討委員会」を設置し、この中で推進・反対の論議が展開されることになった。
 「検討委員会」は、その人選、運営の仕方に一定の問題をはらんでいたが、委員長である山田小樽商大学長の良識が全体をリードし、約2年にわたる検討結果が、放水路計画中止の「提言」に結実するのである。

6. 反省と評価

 こうして千歳川放水路計画を中止に追い込むことができた。最初に作成したパンフレットの標題が「ストップ・ザ・放水路!」であったことを思い起こせば、まさしく勝利したということができる。
 しかし、反省すべき点も多々あることは事実である。
 第1点は、署名を契機として盛り上がった大衆的な運動は、その後、焦点が連合や北海道の検討委員会といった場に移るにつれて、市民や組合員の継続した運動の場が少なくなり、関心が徐々に失われてしまったことである。時間的な余裕のなさから、地元での集会や報告が困難になっていったこともその一因であった。長期に継続するたたかいの難しさを痛感した。
 第2点目は、本来、石狩川流域対策として提起された放水路計画が、あたかも「千歳川流域のための洪水対策」であるかのようにねじ曲げる開発局の議論を突破することができなかったことである。
 これは、連合でも道の検討委員会でも同様なのだが、石狩川流域全体の議論をすると千歳川の洪水対策に議論を移し、千歳川の話をすると石狩川本流の対策を抜きに「千歳川の流域対策の困難さ」を前面に出すという、きわめて巧妙な開発局議論に引き回されてしまったのである。
 石狩川と千歳川という同一水系内の全体の治水議論を展開すべき場において、放水路推進派を多数抱える千歳川流域の治水議論に焦点を絞り、石狩川本流を話題にしないことで「地域住民の理解」を得ようという意図があったと思えるが、この枠は最後まで崩すことができなかった。
 「検討委員会の提言」も結局「千歳川の流域対策」が主で、「次の課題は千歳川と石狩川の合流点対策」というものになってしまった。我々の主張は、石狩川流域の抜本的な洪水対策抜きには、千歳川の対策が成り立たないというものだった。
 結果として、検討委員会の提言は、「合流点対策」のために都市計画に影響を及ぼされる可能性が出てきた江別市などの反発という状況を生み出している。
 第3点目は、第1の点とも重なるが、こうした問題を解決するための道筋をつけられなかったことである。それは、住民の運動によって完全に断念に追い込んだわけではない。また、住民参加の形態を確立し得たわけでもない。住民や環境NGO、労働者は、「拡大検討委員会」で意見を述べさせてもらえたに過ぎないのだ。大規模公共工事を止める先駆ともなる運動であっただけに残念な部分ではあった。
 だが、あえて言わせてもらうが、もちろん評価されるべき部分があったことも忘れてはならない。
 第1に、何といっても官僚の独断専行によってなされてきた大規模公共工事を、それも一度閣議決定されていながらくい止めることができた、という先例をつくったことである。
 第2に、よく言われる産官学ではないが、民・労・学の統一したたたかいを構築し得たことである。現在、市民・環境NGOと労働組合が統一した運動が難しくなってきているなかで、一定の先例を示し得たと考えている。また、河川事業という領域では、学者のほとんどがデータの提供などで「官僚のお世話になっている」という特殊な事情があるだけに、官僚との対決を避けがちである。そうしたなかで、統一したたたかいをつくり出せたのは、自治労を中心とした広範な運動の創出があったからだと自負している。

7. おわりに

 放水路計画を中止に追い込むことができたとはいえ、計画の息の根を完全に止めてはいない。大きな洪水があれば、また息を吹き返しかねない。実際、開発局の「合流点対策」への説明を聞いていると、相変わらず「放水路こそが最善の計画だった」という姿勢を変えてはいないかのようである。
 しかし、私たちは、このたたかいを教訓として、放水路計画ばかりではなく、地域住民の利益と安全を守るためのたたかいを今後とも進めていくことをあらためて決意する次第である。