トゲソの棲むまちづくりにかかわって
~組合員として職員として市民として~

新潟県本部/五泉市職員労働組合 中村 吉則

 

1. はじめに

 現在、私は組合の「特別執行委員」として地域の連合運動や本部の文芸集団幹事として組合運動にかかわっている。しかし、このレポートを応募するにあたって、特に組合員(役員)だから、市の職員だからとの意識で応募しているわけでない。
 かって、自治労の丸山委員長は、月刊自治研の対談の中で、これから自治労として大切なことは組合員として職員として、そしてそこに住む市民として3つの視点で「行政のありよう」を考えることだ、と語っていたことがある。
 最近はまちづくりに、グランドワークという言葉が使われ「市民・行政・企業」の三者の力あわせが語られることが多くなってきた。
 そういう意味で、自分のまちを良くする活動は、市民であり、職員であり、組合員としてかかわるのであり、体を3つに分割できないように簡単に何々として区分できるようなものでない。
 私たちの活動は求められているような組合の自治研と言われるようなものでないかも知れない。しかし、小さな職場サークルとして発足した活動が、その後組合から助成をもらい職場自治研として発展した。やがて職員としてのまちづくり活動にリンクし、現在、稀少淡水魚(「イバラトミヨ(地域俗称=トゲソ)」)を守る市民活動に広がっていった。そんな活動を、今ではまんざらではないと勝手に自己納得している。
 したがって、この活動報告は、人間として学んだことも含め組合員、職員、市民としてトゲソの棲むまちづくり活動にかかわったことのレポートとなっている。あわせて地域のまちづくり、環境づくりの実践途上報告となっている。山形自治研の参考となればと思い、応募した。

2. 五泉市について

 まず具体的な活動内容に入る前に五泉市がどんなまちであるのか、を報告したい。
 五泉市は新潟県の下越地方に位置し、新潟市から約40キロメートル、阿賀野川流域に位置した人口3万9千人の市である。
 古くから織物のまちとして発展してきた。昭和に入って中心産業がメリヤスからニットに変わったが、今でも繊維関連産業が盛んなまちである。
 しかし、このニット産業も円高や東南アジア・中国からの輸入に押され、県内最大の産地も陰りがでている。また、昭和の終わりから平成にかけ人口が4万人を割り、市は地域広域圏の中心という位置づけが相対的に低下してきた。
 現市長は、自治労組織内候補者として1998年の春に当選した。元々は職員の出身で代議士秘書、市議を経て、3期目の県会議員から立候補した。選挙は15年間続いた保守市長が死去したことによるものであった。戦いは自民党支部長兼ねた市議会副議長との一騎打ちであったが当選した。古くから農民運動や労働運動が盛んなまちとして知られている。
 五泉市の職員は350人余りである。前市長は自民党県会議員の出身であり、四期目であった。政治的行政手法は、トップダウンが多く職員に指示待ちの風潮がはびこっていた。市政運営は、住民参加などに眼中がなく、多選を重ねるごとに独断が多くなっていった。
 私たちは、このような市政運営の中で行政と一般市民との間に吹いているすきま風をどのように考えていったら良いか問題意識を持つようになっていった。そこで、何人かの仲間に呼びかけ、沈滞した職員の意識を活性化しようと一歩を踏み出した。
 スタートは5人ほどで始めた「五泉市のまちづくりを考える職員の会」という自主グループの結成であった。メンバーは執行委員経験者や公企評役員などであったが、組合という枠に固まることを避け、自主的な自己研修の場とした。
 グループの活動は、おおむね第1期から第4期までに区分される。“参加する人は拒まず”と、ゆるやかな輪をつくり進めてきた。この間、私は96年秋から98年まで市職労委員長を2年間務め、98年の春には市長選を戦うこととなった。
 以下、具体的展開について報告したい。
 なお、この活動は、97年に自治労新潟県本部の「自治研活動」の支援を受け、新潟県自治研集会や東北地連へレポート提出を行った。

3. これまでの活動と実践

① 第1期目 '95/2~'96/3
  五泉のまちづくりを考える職員の会は、95年2月に準備会を発足し、約1年間で9回にわたる自主研修を実施してきた。研修内容は、「まちづくり」から「環境問題」「福祉」「農業振興」「男女共生」「国際交流」など多岐にわたってきた。
  研修の問題意識は、職員(組合員)として縦型に市政を考えるだけでなく、職務や肩書きを外して横断的に市民と市のあり方を考えていこう、というものであった。
  ちょうど、この時期に市内ニット組合から「五泉ファッション・タウン構想」というまちづくりプランが提案されており、五泉のまちづくりを積極的に考えていこうという目的と重なっていった。
  講師としては、市のリーダーとして各分野で活躍している方を呼んで、外から地方自治について問題提起してもらい、共に学ぶこととした。
  いわば、住民自治について自主的に考えるゆるやかな「職場グループ」として成立していった。後でこの活動は職場自治研として、参加自由な研修として実行された。

第1期活動内容資料

'95年
   2/17 まちづくりを考える職員の会 準備会
   3/2 第1回研修会「ニットのまちを考える」 参加者11名
   4/20 第2回研修会「五泉とイタリアのファッションを考える」
     講師 ニット会社専務 和泉洋子さん 参加者10名
   6/2 第3回研修会「夢とファッションの発信基地」 参加者9名
   7/20 第4回研修会「ボカシとEM菌の世界」 参加者12名
   8/31 第5回研修会 映画上映会*「おてんとうさまがほしい」
    *アルツハイマーとなった老人のドキュメンタリー映画で、映画「阿賀に生きる」の監督佐藤真さんの作品。
     参加者24名
   11/9 第6回研修会「続・一日市会」について 参加者9名
'96年
   2/7 第7回研修会「咲かせよう五泉の夢」 参加者13名
   3/14 第8回研修会「男女共生の職場づくり」 女性組合員5名
   5/23 第9回研修会「まちづくりと国際交流」 講師 坂上洋司さん

② 第2期目 '96/4~'96/9
 第2期目の活動は、前年度で培ってきたつながりを生かし、職員から市民の中に飛び込んでまちづくりをやっていこうと呼びかけた。
 具体的には、「五泉すてき発見」というタウン・ウオッチングを8月に実行した。
 会議の打ち合わせは、気軽に参加できるよう市役所から図書館に会場を移し、実行委員を募り実施した。会では「職員の会」から一歩進んだまちづくりグループを目指し「五泉まちづくり市民応援団」の発足を提案した。
 地域づくりとワークショップを研究課題として、以下の通り取り組んだ。

第2期活動内容資料

'96年
   6/27 五泉すてき発見の「ワークショップ実践講座」の研修会
   7/11 第2回 五泉すてき発見実行委員会 講師 山賀昌子さん
   8/1 第3回 五泉すてき発見実行委員会
   8/10 ワークショップ「五泉すてき発見」を実行 30名参加
   8/23~ 2週間余り市役所ロビーや図書館で成果作品の展示会

③ 第3期目 '96/10~'98/6
  10月からは、互いの信頼関係をさらにネットワークとして広げていくために、「私の友達を皆の友達にしよう」と「五泉ごえん塾」をスタートした。
  1回目では、ワークショップ研究会で縁ができ、知り合いとなった五泉市に住まいの県職員を呼んでまちづくりの話を聞いた。
  第3回は、五泉市民新聞で紹介された「トゲ魚のイバラトミヨ」が五泉にいることを知り、淡水魚研究家や保護活動をしている中条町の方を招いて勉強会を開催した。
  五泉は、かって名の通り湧水のわき出るきれいな川や水辺が多くあった。しかし、いつの間にか環境の破壊と変化によって、身近にいた稀少淡水魚のイバラトミヨがいなくなった。
  幸い、絶滅寸前のイバラトミヨが五泉で発見されたのだ。
  私たちは、この清流の里「五泉」を象徴する魚を守ろうと呼びかけた。
  イバラトミヨは、水中の水草に巣を掛け、オスが子どもを育てる特異な習性を持っている。勉強する内に、五泉のイバラトミヨは生息地南限であることが分かってきた。97年4月、イバラトミヨの現地観察会を通し具体的に「五泉トゲソを守る会」が発足することとなった。
  また、まちづくりを考える職員の会では、97年9月に新潟県が応募した「一村一価値づくり」に応募し、「よみがえれ泉の里・清流の里づくり」のテーマで、応募総数177件の内「優秀賞」を獲得した。
  職員として、組合員として始めた勉強会が小さな実を付け始めた。

第3期活動内容資料

'96年
   10/2 第1回ごえん塾 「私の友達は皆の友達」 7名出席
'97年
   2/24 第2回ごえん塾 「夢を売る商売」 12名出席
   3/16 第3回ごえん塾 「トゲソを守ろう」 20名出席
       講師 井上信夫((有)ネイチャーワーク)さん他
   4/13 第4回ごえん塾 第1回観察会 「トゲソを見に行こう」
        新潟市水族館マリンピアの支援によるイバラトミヨを現地観察。33名が参加。この日を正式に「五泉トゲソを守る会」を発足する。
   11/8    講演会「トゲソの池を造ろう」を開催。 講師上越水族館館長
(一村一価値づくり)
 97年9月 県が募集した「一村一価値づくり」に応募。応募数177件
 98年3月 テーマ「よみがえれ泉の里・清流の里づくり」が「優秀賞」を獲得する。*大賞3件 優秀賞10件の内に入る。

④ 第4期目 '98/7~2000/6
  水面にたらした、一滴の「イバラトミヨ発見」の報道が思わぬ形で広がっていった。特に年配の方には、誰もが心の奥に仕舞い込んでいた「小川の記憶」を蘇らせていった。
  '96年4月に開催されたごえん塾現地観察会は、「五泉トゲソを守る会」に発展した。
  3年間の活動は以下の通りである。
  この間の取り組みには、五泉南小学校で取り組んだ「トゲソの水路づくり」のサポートや熊谷市のムサシトミヨを守る会との交流がある。
  しかし、現地では観察会を開くたびに「トゲソ」の姿が見えなくなってきた。湧水による土砂の吹き上げなどにより、川底が浅くなり生息地の環境が悪化していることが分かった。専門家は、生息地が単一水路のため環境悪化があった場合、一気に「絶滅」の危険性があることを指摘した。その結果、会では一年間かけて生息地脇の土地を借用し「保護池を兼ねた繁殖池づくり」に着手することを決めた。
  今年の5月末から始めて、8月までに4回のトゲソの池づくりが行われた。ボランティアは新潟市をはじめとして、各地から毎回20人から30人が集まって来てくれた。計画では、秋までに学校で増えた「トゲソ」を放つ予定となっている。来春には、繁殖池で安心してトゲソが巣作りをすることをみんなが熱く期待している。
  小さな、職場勉強会から始まった行動が5年間で「市民との協働」までに発展してきた。
  これからは? と聞かれれば、確たる指針があるわけでない。しかし、今後は地域の人々が主役に躍り出てくることを考えていかなければならないだろう。わたしたち市の職員(組合員)は、一歩下がって応援団としての役割を考える必要がある。そして、トゲソを守る会などのNPO団体が必要としている行政政策について、どう作り上げていったらよいかを考えていかなければならないだろう。
  笑顔で市民として一緒に汗を流すことほど素敵なものはない。そんなことを得た第4期の活動であった。

第4期活動内容資料

'98年
   3月 新潟県「ふるさと環境価値づくり100選」に選ばれる。
   4/25 第2回観察会(九区公民館)実施。35名参加
   5/7 まいたけ工場が汚水事故を起こしたことについて質問書を提出
   9/13 第2回新潟県環境NGO大会に実行委員会として参加
   11/8 ねっとわーく福島潟と交流。トゲソを環境団体に紹介
'99年
   2/13 トゲソを知ろう「地域懇談会」の開催、40名参加(九区公民館)
   4/10 第3回観察会を実施 赤羽公会堂 60名参加
   6/28 水路脇土地所有者 坂田恒衛さんから「土地借地」の同意をもらう。
   9/11 新潟県環境NGO大会に参加。第4回新潟県環境賞受賞
   10/30 五泉市「清流の里づくワークショップ」でトゲソをアピール
   11/6 五泉南小学校総合学習でトゲソの水路づくり
   11/22 市の職員研修で会員が熊谷市「ムサシトミヨ」を視察
   12/11 新潟水俣環境賞受賞。新潟にて表彰式
2000年
   3/6 熊谷市よりムサシトミヨを守る会20人来泉。熊谷市職員同行
   4/22 第4回観察会を実施 南小学校ビオトープ観察 シンポジウム70名参加
   5/28 トゲソの繁殖地・保護池づくりに着手。第1回作業40名参加
   7/8~9 第3回「いい川の日ワークショップ」に参加。特別賞を獲得
   8/6  6/4第2回、6/18第3回に引き続いて第4回トゲソの池づくり作業

4. 終わりに トゲソから教えられた人間の生き方

 最後に、活動報告とともにわたしたちがこの活動を通して何を学んだか、を述べておきたい。
 実は、私たちが5センチあまりの小さな淡水魚から「人間の生き方を教えられた」と言ったらびっくりされるかもしれない。しかし、やっぱりこの学びが実感として迫ってくる。
 私たちは、前述した通りまちづくりの過程から「イバラトミヨ」が五泉にも生き残っていることを知り、守る会を発足させたことを紹介した。勉強会では、イバラトミヨが湧水と清流にしか棲まない魚であることを知り、清流のシンボルとして守ることが必要であると学んだ。
 また、トゲソの生態が川の中に巣を造り「オスが子育てをする」特異な魚であることが分かり、シンボルキャラクターとして十分なアピール性を備えていることを知った。だから、五泉市の清流のシンボルとして守ってやろう! と活動をスタートした。
 しかし、今から思えば何と奢った考えだっただろうか、と恥ずかしくなる。
 私たちは、活動を進めていく内に「イバラトミヨ」が何故いなくなったのか、を考えるようになった。
 1つには、水路がコンクリート化され小川や藻などが無くなったことがトゲソを滅ぼしてきたことが分かった。農業の近代化は、水田を乾田化し、パイプ灌漑で水をコントロールし小川を消滅させた。また農薬は、小川から魚や昆虫などを駆逐していった。
 2つには、昭和50年代からの高度成長とともに、「合成洗剤」の出現が清流を破壊していった。汚れを落とし何んでも白くする魔法の「合成洗剤」は、実は水や土で分解出来ない石油物質であった。
 五泉では、年配の人に聞けば、必ずと言って「トゲソなんか、どこにでもいたんだがなぁー。いつの間にかいなくなった。」と感慨をもらす。三種の神器の1つであった、洗濯機からは、白い泡がどんどん水路へ垂れ流されていった。そして、トゲソはいなくなった。
 3つ目は、家庭井戸による地下水の汲み上げや工場による大量の水使用が「湧水」環境を壊していった。大規模な用水路工事を含めた農業土木の工事は、至る所で水脈を分断し、湧水を枯らしていった。
 本来、“谷地”と呼ばれ、古来より水の湧き出る神聖な場所であった池や土地が、人為的な工事や埋め立てによって消えていった。かくして、氷河期から生き延びてきたトゲウオ科トミヨ属イバラトミヨも消滅の一途をたどっていった。
 ある日、トゲソを見ていたら何かつぶやいているように見えた。

◆トゲソ。「僕らトゲソを君たち人間が守ってくれるって?」
◇人間(そうだ、滅びる前に見つかったことは良かった。)
◆「思い上がるのもいい加減にしてくれ! 僕らが絶滅しかかっているのは、人間の身勝手さなのだ!」
◇(何だって?)
◆「あんた方の、便利さとやらの追求のために、川は汚れ、水は枯れ、川がコンクリートになったのだ。何が守ってやるだ! 俺たちトゲソを殺してきたのは、お前たち人間なんだ!」
◇(………?)

 トゲソの顔を見ていたら、本当にこんな声がしてきた。近代化という便利さのツケが、水を汚し、魚を滅ぼしてきた。やがて、水への汚染が人間さえも絶滅させていく…。そのことに私たちは気がついた。
 私たちのトゲソを守る運動は、稀少淡水魚を守ることだけに留まらず、環境を汚してきた人間の傲慢さを気づかせてくれた。川を汚し川を愛していた人間を死に至らしめた水俣病、この事件は、五泉市のすぐ足下阿賀野川で、つい最近に起きた環境の破壊が原因であった。
 オゾンの破壊、環境ホルモンの検出、酸性雨、ごみとダイオキシンなどは、今、人間の生み出した傲慢さとして、21世紀の子どもたちに人類危機の影を落としている。
 だからこそ、わたしたちはトゲソから「21世紀の生き方」を学ばなければならない。
 私たちに問われているのは、この自然と向き合う「人間の生き方」であると言わなければならないのでないだろうか。

(資料1)

(資料2)