ホームヘルパーと介護保険

京都府本部/京都公共サービスユニオン 京田辺市社会福祉協議会支部


1. ホームヘルパーの仕事  ― ふれあいの生れるところ ― 

 高齢者が在宅で生活を送るために、生活の支援をするのがホームヘルパーだ。
 ホームヘルパーは対象者の健康状態、生活スタイルに合わせ、対象者本人が在宅で少しでも豊かな生活を送れるように、自立援助を目的に、対象者の自宅へ出かける。
 援助の範囲は、在宅で生活をするのに援助の必要な人を対象に、定期的な「見守り」にはじまり、「家事援助」や「外出介助」から「看取りの介護」まで幅広い。
 また、対象者の生活スタイルは、独居においても「完全独居」「昼間独居」、同居であっても「棟が別」であったり家族間の関係から「気持ちが独居」である人もいる。対象者の数だけその支援の数があり、当然本人の必要とすることも異なってくる。
 ホームヘルパーは、本人の持っている機能を最大限に引き出すように努力する。具体的には、「介護」でいえばもちろん本人の障害等に合わせ行う介護は違ってくるが、対象者がたとえ寝たきり状態であっても、動く部分は動くように、本人の協力を得られるよう上手く誘導しなければならない。そうせずに、何もかも介護者が行ってしまうと本人の持っている「まだ動く」部分をもなくしてしまう可能性があるのだ。本人の持っている残存機能を十分に活かしながら介護するのがホームヘルパーである。
 「家事援助」の場合、「買い物」「調理」「掃除」「洗濯」などが主な内容だ。しかし基本は自立援助である。例えば「調理」であれば、調理の苦手な独居男性高齢者であっても、ただホームヘルパーの作る食事を待っていることはできない。ホームヘルパーに誘われ一緒に台所に立って不器用に包丁を持ち、ホームヘルパーと一緒に調理をする。
 ホームヘルパーがする方が遥かに短時間ですむところを、大げさなようだが、対象者とホームヘルパーが共に協力しあって1つのことを成し遂げていく。時間もかかるし、大変だ。しかし、そこにはふれあいがあり、対象者とホームヘルパーとの信頼関係が生まれる場所なのだ。ところが、介護保険ではその「ふれあい」を奪い去ろうとしている。

2. 介護保険とホームヘルプ活動  ― それぞれの思い ― 

 介護保険制度のホームヘルパー派遣事業は、30分未満単位で料金設定がされている。派遣時間はケアプランによって決まるが、この時間設定が様々な問題を引き起こす要因となってくる。
 この30分という時間設定は、極端に言えば、活動時間が1分でもいいし29分でもいいことになっている。仮にケアプランによって1時間のホームヘルパー派遣が決まっているとすると、その1時間のうちホームヘルパーが活動できるのは31分でもいいし59分でもいいということになる。
 31分の派遣でも59分の派遣でも1時間の活動に対して利用者が支払う料金は同じである。これは、人によって1つの仕事を完成させるための所要時間が違うことから生まれた時間の標準化によるものであり、また本来の介護保険の目的で言えば、利用者はホームヘルパーの活動の成果を買うのであって、ホームヘルパー自身を拘束するための時間ではない。
 ところがこれを経営の視点からみれば、1時間の派遣ケースに対して、30分を越えてなるべく早く活動の終了を願う事業主が出てくる予想がされる。その方がホームヘルパーの稼働率が上がり利益につながるからだ。
 しかし、ホームヘルパーとしては、仮に40分で活動が終われば、後の19分は話をしたり又、59分の時間配分の中でゆっくりと利用者とふれあいながら活動を望むところだ。
 また利用者の立場で言えば、同じだけ支出するのなら、派遣時間ぎりぎりまでできることはやって欲しいと願うのではないかと容易に推測できる。
 そこで事業主と利用者とホームヘルパーの間に摩擦が起きるのではないかと危惧する。

3. 理想と現実  ― 本当に大切なもの ― 

 また、何よりも懸念されるのは、ホームヘルプ活動そのものの質である。
 措置制度時代のホームヘルプ事業では、条件の満たす人を対象にホームヘルパーの派遣を行ってきたため、その対象者に遠慮や、また福祉の世話になっているという情けなさや、世間に対する恥じのような気持ちが混在していた。
 介護保険では、それらを一掃するものである。介護を受けるのは当然の権利であるとし、そのために社会全体で介護を支えるのを目的の一部とし、また、本人の意思を尊重し、「選ぶ介護」で本人主体の制度でもある。そして、忘れてはならないのが、介護をする人も介護を受ける人も対等になるためのシステムでもあるのだ。
 しかし、現状を見ていると、その効果が反映されていないような感がある。利用者にしてみれば、お金を出して商品を購入しているのだから、商品は購入者の満足を十分に満たすべきで、商品購入者であるがためにホームヘルパーよりも優位であるとの錯覚を生み出してしまっている部分が一部あるようだ。
 しかし、従来ホームヘルパーというのは、「対象者の残存機能を生かしながら、在宅で生活できるように援助する」という精神教育を徹底して受けてきている。
 だが、営利のためには、ホームヘルパー精神がどこまで掲げられるのか。現状では、採算のために、優先しなければならないものが片隅に追いやられつつあるような気がしてならない。

4. 利用者とホームヘルパーの関係  ― 自己を知る ― 

 採算重視から顧客を獲得するために、利用者の言うことを何でも聞いてサービスを提供するのが良いサービスであるのだろうか。もちろん利用者の、「代金を払っているのだから、何でもやってもらわないと損」だという言い分もあるだろう。しかし、それは質の良いホームヘルパーの仕事を望むというより、なんでも言うことを聞くホームヘルパーを望んでいるのだ。そして、それは本人の持っている残存機能の低下につながる可能性も含んでいるのだ。これでは、寝たきりの予備軍を作っているようなものである。
 また、ケアプランに添って時間を気にしながら決まっていることだけしてさっさと帰ってこなければならない。まるで機械のようなホームヘルプ活動が、これからもし行われるようになれば、またそうしないと採算がとれないということになるのなら、過去のホームヘルパーと対象者の間に生まれた「ふれあい」を捨て、一体介護保険はどこに行き着くのだろうか。優秀なホームヘルパーであればあるほど、ここに葛藤が生まれるのだ。
 医療現場では、インフォームド・コンセントの重要性が取りざたされ、医者と患者の間での意思疎通のための相互努力の重要性が叫ばれているが、やはり福祉現場においても必要な要素を含んでいると思われる。
 「何ができて、何ができないのか。」「在宅で生活するために本当に必要なものは何なのか。」サービス提供者も利用者も、介護保険の意味を本当に理解し、またホームヘルパーが何をする人なのかもきちんと認識しなければならない。それが、ホームヘルパーと充実した関係を築く基本となる。

5. ホームヘルパーの仕事2  ― ヘルパーに託すもの ― 

 ここで再度確認したい。ホームヘルパーとは何をする人か。くどいようだが、在宅で生活するために欠けている部分を補うために、本人にとって必要なことをするために在宅に出向く。本人の残存機能を上手に活かし、個々に応じたケアをする。共に横に並んで歩き、相手の目線で物を見、言葉で、時には心で語りながら日本の四季を過ごしてきた。たとえ相手が目を閉じて眠った状態であっても、聞こえているかもしれない可能性に話しかけてきた。相手は物ではなく、人間なのだ。
 措置制度の中で活動してきたホームヘルパーは、身体的なケアに加え、自然と心のケアの役割も担っていた。人生の終末にあって人が感じる「生死観」を、ホームヘルパーは医療行為を禁止された活動の中で、あくまで介護に徹し、その死を見つめてきた。しかし、これから育成されていくホームヘルパーに託せるものがあるだろうか。

6. 過去からの遺物  ― 残される課題 ― 

 ここまでホームヘルプ活動の精神論を基に語ってきたが、それだけではただ単に「昔はよかった」と感慨にふけっているだけに留まってしまう。また、対処すべき課題は勿論他にもあり、それらは介護保険の実施によって発生したわけではない。
 「痴呆症のケアに入ったホームヘルパーが物を盗んだと言われた」とか、「ケアに入ると対象者が死亡しており、責任問題になった」等は従来からあったトラブルの代表だ。このようなトラブルが起きるのは、ある意味仕方がないとしても、その起こったトラブルが以後の活動に支障をきたすことが問題だ。これは、恐らく活動自体をあくまでもホームヘルパーのボランタリティーな部分に頼ってきた過去があり、社会的に確立されたものではなかったことに原因の一因があると思われる。
 また、雇用の形態が多種であり、そのことが「あいた時間を社会のために」というボランティア的な感覚を呼んできたのも事実だし、その雇用形態によって活動に対する意識に格差を生んできたのも否めない事実である。
 そして、活動は個人による密室で行われるため、そのホームヘルパーの判断力は常に問われている。本来であれば、事業所や個人によってその活動の質が違うということは、あってはならないことである。しかし、現状では、即席ホームヘルパーが活動に出ていることも手伝ってそのことに拍車をかけている。

7. 今すべきこと  ― 時は今、未来へ ― 

 介護保険の果たすべき役割はあまりに大きいのに、現時点ではその功績を認めるに足らない部分が目立っているようだ。しかし、現実は現実として受け入れ、現行下でも従来のサービスを提供し続けていける状況を作り出す知恵とパワーが必要だ。
 また、介護保険の導入による混乱に加え、過去から持ち込まれた課題等を今後どう整理していくかの転換期だ。
 しかし、誰かが何かをしてくれるのを待っているだけでは展望を見出すのは難しい。不安はあるがもう少しだけ待ってみようとか、これだけ世間が騒いでいるのだからそのうち良くなるだろうというような、楽観的で安易な気持ちから時が流れるのをただ見つめるだけでなく、自分達の想いを伝えることの大切さや勇気といったものが持つ力を見直す時にきているのだ。そして、自分達の働く場所を自分達の力で改善し、作り上げていく。それは労働組合運動そのものである。舞台を事業所から社会に変え、良かった時代のホームヘルプ活動の質を落とさず本来の介護保険の目的も達成できる制度を、そこに働くホームヘルパー自身が作り上げていく時を今迎えている。
 組合の組織率の低下が叫ばれ、組合のあり方が問われている昨今である。女性が大半を占めるホームヘルパーとその組合の関係は、労働条件の向上を基本に据えた組合活動からさらに発展し、新しい時代の風を吹かせることのできる組合を生み出す原動力になりえるだろう。柔軟で時代に即した組合作りが実践されることにより、その効果がホームヘルプ活動に活かされることはもちろん、対住民、対地域、しいては社会にまで波及することを願ってやまない。
 今後も、世界はどんどん変化していくだろう。テクノロジーもめまぐるしく発達し、いずれ介護ロボットなんていうのが登場する時代がくるかもしれない。その時、人々の暮らしはどうなっているだろう。介護はどう発展し、介護保険はどう姿をかえるだろう。
 近い未来、介護産業の中で、人を介護しているのは果たして何だろう。何でも言うことを聞いてくれる完全無欠のロボットと、相変わらず自立援助の基本精神をつらぬくホームヘルパーが共存できるとすれば、どちらが人気を得るだろう。
 選ぶのは利用者だ。