重要文化財をめぐる都市景観形成


山形県本部/山形市職員労働組合

 

1. はじめに

 山形市は人口約25万人、豊かな自然と歴史に育まれた都市である。今なお、街のいたるところに城下町の面影が息づき、周囲には自然とふれあう憩いの場が整備されている。かつて山形を訪れたライシャワー駐日米国大使は、山形を「山のむこうのもう一つの日本」であるとし、「日本の本来の姿を思い出させる美しい所」と賞した。
 このような先人たちの残した美しい街の姿を守り育てるため、市、市民、事業者が一体となって街づくりを進めることの必要性が問われ始めていた。そこで、山形市では、1994年に「山形市景観ガイドプラン」を策定し、1998年6月には行政、市民、事業者、そして専門家の責務を謳った「山形市景観条例」を施行し、景観形成に本格的に取り組み始めた。
 山形市の景観形成の基本方針は、つぎの5つである。
 ● 自然の表情豊かな街づくり
 ● 歴史を生かした風格ある街づくり
 ● 新しい山形の文化をつくる想像力豊かな街づくり
 ● 新たな世代に良きふるさとを伝える街づくり
 ● 生き生きとした人のつくり身近な街の街づくり
 山形市景観条例の目的は、この基本方針を行政、市民、事業者と共に実現させることである。
 以下、山形市における都市景観行政について文翔館周辺地区のまちづくりを例に、事例報告と課題提起を行いたい。

2. 文翔館周辺地区

 山形県旧県庁舎、及び旧県会議事堂は、明治時代に建築され、その付近は、当時、行政地区として山形県・山形市の中枢機能が集中した場所であった。現在、山形県庁は移転したものの、山形市役所、裁判所、県民会館、銀行等が立地し、その特色を色濃く残している。一方、旧県庁舎の裏手にあたる北側部分は、学校、神社仏閣に囲まれた、緑豊かな住宅地である。1932年~33年頃に土地区画整理事業によって整備され、今でも落ち着いた雰囲気を醸しだしている。
 旧県庁舎が「文翔館」として生まれ変わったのは、およそ5年前のことである。1981年に県政史緑地として旧県庁舎・旧県会議事堂が都市計画決定され、1984年には国の重要文化財に指定された。山形県が巨額の費用を投じて修復工事を始めたのが、1986年。そして1995年、およそ10年にわたる工事が完了し、1998月に山形県郷土館「文翔館(愛称)」としてオープンした。
 この秀麗な容姿を持つ公共施設は、旧県庁舎が県史資料展示場として、旧県会議事堂が150人程度の収容能力を持つ、講演会、コンサート、そして近頃では結婚式の会場やドラマのロケ地などとして広く利用されている。また、山形市の中心部、七日町商店街の軸線のアイ・ストップ(注視点)となる文翔館の美しい姿は、山形を代表する景観として、県内外の人を魅了している。

3. まちづくり活動

 優れた景観は、都市の個性であるとともに、地域の誇りである。地域の活性化のためにも、自然や歴史、文化を生かした「山形らしい景観づくり」は必要不可欠であり、そのまちづくりの過程で主体となるのは市民である。
 しかし、山形市景観条例が施行された当時、このような認識をもって「景観」について考えている人は多くはなかった。山形市では、市民に「景観」についてもっと理解を深めてもらえるよう働きかけを始めるとともに、特徴的な景観資源をもっている地区については、重点地区として、その景観資源を保全・活用していく必要があると考えた。
 そこで白羽の矢が立てられたのが、文翔館周辺地区である。山形市は、文翔館周辺の地区住民に対して、積極的に、景観形成についてのPR活動を始めた。
 ちょうど県による文翔館整備事業が完了した時期と重なり、山形市の財産として文翔館周辺地区を守っていこうとする動きは、地区住民のまちづくり活動へと発展した。地区住民の熱意と、それを支える行政の援助により、1997年2月、文翔館周辺の町内会が中心となり「文翔館周辺環境整備連絡協議会」(以下「連絡協議会」)が発会。地区住民の手で文翔館周辺の良好な景観形成を図ることを目的として活動を始めた。
 1998年3月には、「連絡協議会」の主催により「文翔館周辺まちかど探検」を行った。このイベントは、地区内に居住する小学生が自分たちのまちを歩き回って、「すてきだ」、「不思議だ」、「かわいい」など感じたことを思いつくままに写真を撮り、それを元に地図を作成するものだった。参加した子供たちには、自分たちの町を再認識するきっかけとなった。この他にも、地区住民のまちづくりへの理解を深めるために講演会を開催し、定期的に集会を行って意見を交換し合い、地道な活動を続けていた。

4. マンション建設問題

 山形を代表する景観である「文翔館」の背景地に、14階建て、高さ47メートルのマンション建設計画が持ち上がったのは1999年の7月のことである。
 建設されれば、正面から文翔館を見たとき、その後ろにマンションが飛び出してしまうことになる。法的には問題のない建設計画ではあったが、山形のシンボルとして、愛され、親しまれている文翔館周辺の環境が損なわれることに、多くの周辺住民等が反対の意を唱えた。
 突然降って沸いた開発計画は、これまで文翔館周辺地区の景観のあり方について地道な取り組みを続けていた「連絡協議会」をはじめ、地区住民にとって、自分たちのまちについて、あらためて考えさせられるきっかけとなった。
 文翔館に調和した町並みをつくるために活動を続けていた協議会としては、山形市の中心市街地活性化のためにも新しい開発が必要であることは理解しているものの、自分たちの目指すまちづくりを損なう建物に目をつぶることはできなかった。協議会のメンバーは、マンションの軒高を下げ、文翔館の背景から飛び出さない高さとする計画変更を求めて署名を集め、業者、行政に提出する一方、これまでにも話し合いを続けていた、山形市景観条例に基づく「まちなみデザイン協定」の早期締結に向けて動き始めた。
 度重なる住民、行政、業者の3者間の協議、東北芸術工科大学主催のシンポジウム開催、関係者によるアドバルーンを揚げての検証などを経て、2000年1月、業者は当初の建設計画を、10階建て、高さ約30メートルに変更した。その結果、マンションが建設されても、その姿は文翔館から飛び出さない高さとなったのである。
 この間、6ヵ月。「連絡協議会」を中心とした地区住民による景観保全の動きは、業者の理解を得て、実を結んだ。

5. まちなみデザイン協定

 今回のマンション建設計画に伴い、文翔館周辺の住民は、あらためて「自分たちの町の落ち着いたまちなみを、子の代、孫の代まで伝えていきたい」という共通認識を得ることができた。この認識が、山形市景観条例に基づく、まちなみデザイン協定「文翔館周辺まちづくり協定書」の締結を促した。
 2000年1月、文翔館周辺町内会長会議により協定案の合意がなされ、以後、各町内会長が住民の同意を集めにまわった。そして、2000年5月30日、地区住民271名の同意を得て「文翔館周辺まちづくり協定書」が締結されたのである。
 近代建築の歴史的な遺産である文翔館を中心とし、調和あるまちなみの形成を図ることを目的とした、この協定は、
 ● 文翔館の軒高から飛び出さない高さとする。
 ● 屋根、外壁は落ち着いた色彩とし、文翔館との調和を図る。
 ● 広告物は低彩度のものを基本とする。
 ● 隣地との境界は原則として生垣とする。
 ● 駐車場や空き地は前面道路からの見え方に配慮する。
などについて、同意した住民同士で守っていくことになる。
 この協定の内容が景観形成に寄与するものと認めた山形市は、2000年6月16日、「文翔館周辺まちづくり協定書」を「まちなみデザイン協定第1号」として認定し、公示した。今後、この協定は「連絡協議会」によって自主運営管理される。文翔館周辺地区は、自分たちのまちを、自分たちの手で守り、育てるための第一歩を歩み始めた。行政は、その運営に必要な情報、技術的な援助を提供することで、その歩みをサポートしていくことになる。
 山形市景観条例制定から5年。住民と行政が支えあって進めてきた景観形成についての取り組みは、ここに一つの成果を得た。

6. まとめ

 文化財保護や都市計画にかかわる未だ解決をみない大きな課題として、公共の利益と私権の保護との関係があげられる。とりわけ景観については、その価値基準が個々人によって大きく異なることもあり、コンセンサス形成がきわめて難しい。地区住民間でルールを作ろうとしても一朝一夕に進むものでないのが現実である。山形市内でも、まちづくりを考える組織はいくつかあるが、いずれもルールを決めるまでにはいたっていなかった。
 文翔館周辺地区のまちなみデザイン協定は、マンション建設計画をきっかけに締結された。しかし、この結果は、決してマンション紛争の一言で片付けられるものではない。地区住民の中に自分たちのまちを大切にする思いがあり、そして大切なまちを守っていこうとする地道な活動を続けてきた実績があったからこそ、問題が起きたときに、住民が一つにまとまることができたのである。その住民のまとまり、地区のまとまり、つまり「コミュニティーパワー」が原動力となって、業者側の計画変更、そして「文翔館周辺まちづくり協定書」の締結へと導いた。今回の事例でも「景観形成」と「私権の制限」ということが争点の中心であったのだが、一方では、「景観形成」は「コミュニティー形成」とも深く関わることがわかった。
 「景観形成・保全」を住民レベルで考えるときには、「まちづくり・コミュニティーづくり」を忘れてはならない。自分たちのまちについて住民みんなで考え、住民みんなで守っていくという意識がなくては、たとえきれいに整備された町並みも、永く保全することは難しい。景観は、完成すれば終わりとはならない。育てて、守っていくものである。それも一人でできるものではなく、地域全体で協力しあってこそできるものなのである。
 コミュニティー意識の薄れてきた現代にあって、景観形成活動は、あらたな住民同士のつながりを生む可能性を秘めている。今回の文翔館周辺地区のまちなみデザイン協定締結に至る道のりは、その可能性をうかがわせる事例でもあった。

文翔館周辺地区図