子ども権利条例案の取り組み
~市民参加の条例づくりから~

神奈川県本部/川崎市職員労働組合・教育支部

 

 川崎市では、1998年9月に「川崎市子ども権利条例検討連絡会議」を立ち上げ、全国初の子どもの権利に関する条例案づくりを始めた。検討連絡会議では、1年9ヵ月にわたる審議や、市民・子どもたち、関係諸団体等との意見交流など延ベ200回近くにも及ぶ活動を経て、本年6月29日、最終答申をまとめて市長に提出した。そして7月15日に市民集会を開催して、答申内容を市民に報告して検討連絡会議の活動を終了した。
 答申を受けた市では、答申に沿って条例案をまとめ、今年度中に市議会に上程し、来年度から条例を施行する計画である。
 本稿では、この「権利条例案」づくりの背景や取組経過を中心に答申された条例骨子案の概要説明を含めて報告したい。

1. なぜ子ども権利条例か

(1) 「人間都市かわさき」の一環として子どもの権利条約の実現を図る
  川崎市が子ども権利条例をつくろうとした背景として、1994年に日本が批准した「子どもの権利条約」の実現があげられる。子どもたちが実際に生活しているのは地域社会であることを考えると、この条約の理念に基づいて子どもの権利保障や権利の実現に努める役割を、国とともに自治体も担っているという認識による。特に、子どもを権利侵害から速やかに救済するしくみをつくることは、子どもにより近く接している地方自治体こそが取り組むべき課題であるといえる。
  また、条約では、子どもの権利として「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」とともに「参加する権利」を定め(日本ユニセフ協会のまとめ)、子どもを保護されるべき「対象」から、1人の人間として全面的な権利の「主体」として見ることを求めている。そのため、従来の子どもに関わる行政施策や学校・児童福祉施設などでの取り組み、さらには家庭や地域社会でのおとなと子どもの関係についても、この新しい子ども観に立って見直していくことが必要になってきており、その実効牲を高めるためにも条例制定が求められた。
  川崎市では、1970年代の公害反対運動の高まり以降、革新市政の誕生によって「人間都市かわさき」をめざす市政が行われている。近年では、1985年の外国人登録指紋押捺拒否者の不告発宣言を始め、外国人教育基本方針の制定、外国人市民代表者会議の創設、市職員採用の国籍条項撤廃など、民族差別解消に向けた取り組みを進めており、また、市民オンブズマン条例や情報公開条例・個人情報保護条例の制定など、市民の権利を保障する多角的な取り組みが全国に先駆けて進められている。
  子どもの権利保障においても、条約批准の年から「子どもの権利条約」パンフレットを全児童生徒に配布し、子どもたち・保護者への啓発活動や、教職員等の研修、また、子どもの人権の視点からの関係機関・団体とのネットワークづくりなどに努めてきた。
  このような取り組みをさらに一歩進め、子どもの人権という視点を踏まえた子ども施策の総合的な推進や地域社会における子どもの人権状況の改善をはかっていくことをねらいに、川崎市としての「子ども権利条例」づくりに着手したのである。

(2) 川崎の地域教育改革運動の延長上に
  子ども権利条例が川崎で初めて提案されたのは、1997年3月の川崎地方自治研究センター報告書『川崎の子どもの権利保障を一層充実させるために~子どもの権利条例制定に向けて~』であり、それが同年秋の市長選において公約として取り上げられたのである。
  この報告書をまとめたのは、川崎市職労、川崎市教職員組合、生活クラブ生協などと研究者が構成員となっている「かわさき子どもの権利研究会」であり、このような政策提言の取り組みは、1984年に「川崎市教育懇談会」が設置され、2年間にわたる市内全小学校区での教育市民討議で出された意見が報告書「いきいきとした川崎の教育をめざして」にまとめられて川崎の教育改革の基礎となって以来、1988年の教育改革協議会による地域教育会議や校区協議会の検討、1991年の生涯学習推進基本構想策定など、市職労と川教組によって取り組まれてきた教育改革の延長線上にあるといえる。
  今回の子ども権利条例案は、市民・子どもの参加によってつくられてきたが、地域からの教育改革をめざして生まれた「地域教育会議」によって、市民・学校・行政が一体になって子どものことを考え合うという土台が培われてきたからこそ、後述するような大規模な参加形態が可能になったといえる。

(3) 分権の推進に向けて
  市民参加で作る条例案は全国でもほとんど例を見ないのではなかろうか。
  川崎市では、子どもの権利保障のような多様な地域事情を反映した複雑多岐にわたる課題は、中央集権型のシステムではなく、地域密着型、ネットワーク型のシステムで対応することが課題解決により適していると考えた。また、市民や子どもなど、当事者が直接参画して政策を形成し、実行にあたって行政と市民のパートナーシップの中で取り組んでいくことが、分権時代の地方自治のありかただと考えた。
  子ども権利条例案策定の取り組みは、分権型社会に至る道筋を模索する「市民立法」の1つの試みでもあったのである。

2. 条例案づくりのプロセス

 条例案づくりは、「市民とともに」「全庁的体制で」「川崎の現状の上に」を基本姿勢に始まった。まず、市長委嘱により「子ども権利条例検討連絡会議」とその作業委員会である「子ども権利条例調査研究委員会」が設置され、原案の検討と内容のとりまとめを行ってきた。また、市民局や健康福祉局、総合企画局など関係局からなる幹事会をおき、事務局役割を果たすとともに全庁的総合調整の土台作りを行った。そして、権利条例案の策定には、市民参加・子ども参加を積極的に図り、会議や資料等はすべて公開して審議が進められてきた。
 「調査研究委員会」には、おとな委員と一緒に9名の子ども(中1~高1)が委員として参加した。さらに権利条例案を子どもの立場から検討する場として「子ども委員会」が小学校高学年から高校生まで公募の約50名で組織され、種々な立場の子どもの意見を聞いたり、子どもの権利について話し合いを行ってきた。また、市民の立場での自主的な検討の場として設置された「市民サロン」では、公募の市民約20名が継続的に研究や話し合いを行って、成果を調査研究委員会にも報告してきた。
 そして、審議の節目ごとに、下記に掲げる市民・子ども向けパンフレット(返信はがき付き)の作成や、子ども集会・市民集会の開催、ホームページの開設などにより、審議の途中案を提示して意見を求め、さらにその意見も含めて検討した案を再提示するといったキャッチボールを、ほぼ3ヵ月に1回のペースで繰り返して、条例案の内容をまとめてきた。
 1998年12月:市民・子ども向けパンフレット『みんなで子ども権利条例案をつくろう』(最初の呼びかけ)作成配布(市民版・子ども版 計12万5千部、以下同じ)。
    12月:川崎子ども集会の開催(多様な立場の子どもたちの意見交流)。
 1999年3月:市民集会「子ども権利条例案の策定にむけて」の開催(課題別分科会)。
    6月:中間報告書『川崎市子ども権利条例をつくろう~市民討議に向けて』を検討連絡会議から市長に提出。
    7月:市民・子ども向けパンフレット『わたしたちの声を届けよう(子ども版タイトル)』(中間報告の概要)作成・配布。
    9月:市民集会開催。中間報告の課題にあわせ5分科会を設定。
    12月:川崎子ども集会の開催。集会アピール文は権利条例案へ反映。同月:市民集会開催。子ども権利条例イメージ案の概要報告と市民との意見交流。
 2000年3月:子ども権利条例第1次骨子案(調査研究委員会原案)の公表。
    3月:市民・子ども向けパンフレット『子ども権利条例案はこんな内容を考えています』(骨子案の紹介)作成・配布。
    3月:各行政区(7区)で市民集会を開催。子ども権利条例第1次骨子案の内容説明と意見交流。集会の運営は市民と共同で行った。
    6月:答申を検討連絡会議から市長に提出。
    7月:市民集会を開催し答申の報告を行う。

3. 子ども権利条例骨子案の内容

 子ども権利条例骨子案の内容は、大きくは前文と7章からなっている。前文では権利条例制定の趣旨を、1章では子どもの定義や市、市民の責務など総則的な規定をうたい、2章では子どもの権利の理念を「人としているために大切な子どもの権利」として7項目に分けてうたうとともに、3章では子どもの生活の場に即して、家庭、学校や施設等、地域に分けて権利保障のあり方を示している。
 4章以下では、市が具体的に整備すべき仕組み等を提案している。4章では子どもの参加の権利を保障する「学校・施設等協議会」や「子ども会議」が検討され、5章・6章では、市の子どもにかかわる施策の総合的な推進体制の整備と子どもの権利状況や施策等を第三者的立場から評価・検証する仕組みが検討されている。また、7章では子どもの権利救済にかかわる「子どもオンブズパーソン」制度の創設が考えられている。
 この骨子案は、現在、既存の法令、現行施策とのすり合わせ、新規事業の具体案化が行われながら、市行政によって条例案として整えられ、今年度中の議会に上程すべく作業が進められている。

4. 市民参加の条例案づくりから見えてきたこと

 さて、「子ども権利条例案」づくりが大詰めを迎えた今、どんな課題と成果が見えてきたか、市民参加の成果のいくつかを述べてみたい。
 まず、市民や子ども達から出された多様な意見が、条例案の骨格に大きな影響を与えた。
 川崎の子ども達が求めているのは、「ありのままの自分」でいられることであり、違いを個性として認め合いたいということや、子どもをおとなと同等の1人の人間として見てほしいということなどが、様々な場で幅広い世代の子どもによって語られてきた。条例案第2章は、このような思いを受けてまとめられており、「子どもの権利条約」の構成とはだいぶ趣を異にしている。
 また、おとなの意見で最も多かったのが、「権利と義務、責任」についてである。「これ以上子どもを甘やかすな」「言うことを聞かなくなったら困る」「権利を書くなら義務も書け」といったものだが、一方で、「おとなの都合で権利を制限するな」「子どもの荒れの原因は子どもの権利が侵害されていることだ」など、義務や責任の言葉を入れることに反対する市民も多く、論争は続いたが、子ども達からも「他人の権利を侵害しないことが大切で、権利を正しく使う責任はある」といった意見が出て、条例骨子案は「権利の相互尊重」という言葉でまとめられた。
 次に、市民参加が、市民・行政双方に変化を生んでいるということがいえる。
 まず、相互学習の成果があげられる。市民にとっては、この間の市民討議や審議会傍聴は、子どもに対する認識を変え、あらためて子どもの権利とは何か、おとなは何をしなければいけないかを考える機会となった。市民サロンでは、最初は様々な意見が錯綜していたが、程なく自分の主張だけしか認めないような態度は影を潜め、議論が積み重なるようになっていった。今では、メンバー個々に様々な集会に参画したり自分達の取り組みを発表するなど、地域の中での活動を大いに広げている。また、子ども委員たちは、年齢に応じた差はあるものの、自分の課題をとらえ理解し表現する力を、討議を重ねることによって着実に身につけてきている。行政も、市民や子どもの生の声、子どもと接する現場からの生の声を聞くことによって、机上だけではつかめない一人ひとりの子どもの現実に即して考えることの大切さを知らされた。
 次に、相互関係の変化があげられる。行政や学校に要求だけしても解決にはならず、ともに知恵を出し合い担い合うことこそが大切であることなど、この1年半以上一緒に考え合ってきた人たちからは感じ取ることができる。行政も、市民と対等の立場で議論することから、よりよい政策や協力関係が生まれていくことを実感している。
 そして、そのような関係の変化から、相互信頼の芽生えが見えてきた。今回の市民参加の取り組みは膨大なエネルギーを要した。また、審議途中の考えが次々に外に出ることによって、誤解や混乱もずいぶん生じた。しかし、討議の過程が見えることで、できることできないことを、その理由も含めて理解することとなり、成案化するに従って、かえって審議会や行政に対する信頼は増したように感じている。また、行政としても、これまでのように市民に知られることを必要以上に警戒し、議論を隠しながら政策をつくり、最後になってアリバイ的に市民討議を行って、批判を浴びながらも強行突破してしまう、そんなやり方がいかに不自然であったかを、今回のプロセスを通じて痛感した。
 できないことは、なぜできないのかを説明し、その政策のもつメリット・デメリットをはっきりさせたうえで、政策決定について市民とともに考えあう。そのような、市民に納得のいく説明をする責任が行政には求められてきており、そして市民にも要求だけでなく参加を、責任を担い合う姿勢を求めていくことが、分権の時代における「協働」といえる。
 子ども権利条例の制定は、教育の分野における分権推進の象徴であり、国との関係の見直し、市民との連携、情報公開、縦割り行政の克服などの様々な課題を乗り越えながらの「挑戦(チャレンジ)」である。このチャレンジが、子どもの権利保障のみならず、他の行政分野にも広がりを見せたときに、「分権」は次の段階を迎えることだろう。
 「子ども権利条例」は、市民と行政が議論しぶつかり合いながらつくってきた。しかし、数千、数万の市民や子どもが参加したとはいえ、まだまだ市民の一部でしかない。今後の子どもの権利の啓発については、この間かかわってくれた子どもたちや市民と、知恵を出し合いともに担いながら進めていこうと話し合いが始まっている。
 今回策定される条例が普及し、子どもの権利や人権を理解する市民や職員や教員がもっと多くなること、そして市民と行政が自治と協働の関係を築いていくこと、そのような関係ができた時に(それは、次の世代のことかもしれない)、地域社会は生き生きとした子どもの権利保障の場になり、また、全ての人の人権が尊重され、子どももおとなも「ありのままの自分」でいられる地域になっていくだろうと期待している。