森 は 海 の 恋 人

宮城県/畠山 重篤

 

はじめに

 私は波静かな入り江が続く三陸リアス式海沿の気仙沼湾でカキ養殖業を営む一漁民である。良いカキを生産するには、その海に流れ込む川、そして、その上流の森が大切なことに気がつき、仲間と共に気仙沼湾に注ぐ川の上流の室根山に、広葉樹の植林運動を続けている。名付けて「森は海の恋人」運動である。
 海に生きる漁民がなぜ山に登ることになったのか、森と海とはどんな関わりがあるのか、その動機と運動の経過を綴ってみたい。

1. 汚れた海

 私は昭和36年、気仙沼水産高校を卒業すると家業であるカキ養殖業の跡を継いだ。父が昭和22年から始めていた海の仕事であった。当時の海はとても今では想像できないような豊かな海であった。夏に採苗したカキの稚貝は、早くもその年の正月前には収穫が始まり、翌年の採苗前には筏が空になっていた。1年で回転したので、仕事のサイクルがシンプルで船の装備は悪くても楽に仕事ができた。
 しかし、昭和40年代から50年代にかけ海の様子がおかしくなってきた。
 カキの成長が悪化してきたのだ。1年で収穫できるものが1年半かかるようになり、更に2年越しで育てないと収穫できなくなってきたのである。
 更に、白いカキの身が赤くなったのである、赤いといっても、ピンクやうすい赤ではなく血の色のカキが出現したのだ。
 出荷した全国の市場からは、「血ガキ」という汚名をつけられ、売り物にならず廃棄処分扱いにされることが続出したのである。
 カキの餌は植物プランクトンと言われるもので、海水と一緒に体内に吸い込み、エラで濾して食べている。ちなみに1個のカキは、1日に200リットルもの海水を吸っている。
 原因は、気仙沼湾奥で発生した赤潮プランクトン、「プロロセントラル・ミカンス」が秋口北西の季節風に乗って流れ出し、外海に近いカキの漁場まで流れてきたことだった。
 当時、10万人近い気仙沼市には下水道設備は完備されておらず、家庭廃水、水産加工場からの工場廃水、魚を解体した血の混じった魚市場の洗浄水などは、そのまま海に捨てられていた。追い打ちをかけるように、それ等の有機物を分解してくれる生物の住処である干潟が次々に埋め立てられ、自浄能力の失われた海になりつつあった。更に、それまで少々雨が降っても、気仙沼湾に注ぐ大川が、いきなり濁ることはなかったが、いつの頃からか大した雨でもないのに、たちまち泥水が流れてくるようになっていたのである。
 漁民はたちまち苦境に立たされ、特に江戸時代から続いていた海苔の養殖が大きな打撃を受け陸に上がる漁民が続出したのだった。

2. ブルターニュの浜辺で

 このような海の仕事も、俺達の代でおわりだなあと、仲間が集まると暗い話ばかりが続いていた。そんな時、ひょんなことから、フランスのカキ養殖事情を視察に行く機会を得たのである。中世からの歴史があるフランスのカキ養殖をいつか見たいと思っていたことが実現したのだ。そして、このことが漁民が森に目を向ける機会となったのである。
 前述したようにカキの餌は植物プランクトンである。これは、河口の海で多く発生する。だからカキの養殖場はどこでも河口なのだ。
 日本一の産地広島湾には大田川、2位の宮城には北上川が注いでいる。我が気仙沼湾も大川河口である。
 地中海側のローヌ川河口のラングドッグ地方、ワインで有名な大西洋側のボルドー沿岸にはジロンド川という大河が注いでいる。
 レンタカーでじっくりフランスの沿岸を回っている内に、コンクリートで固められた海岸が少ないことに気づかされた。日本なら当然のように埋め立てられてしまうだろう水深の浅い汽水湖がちゃんと残されているのである。私はフランスの漁民が羨ましくて仕方がなかった。
 フランス最大の大河、ロワール川河口の干潟に立った時、浅瀬に蒔かれた(フランスでは干潟にまいて養殖している)カキをみて、一目で健康なカキであることがわかった。長年、カキ一筋で暮らしているのだから、その良い悪いは直ぐわかる。
 ナイフで殻をこじ空けて中身を調べると、白く、ふっくらとした素晴らしい身だ。それより驚いたことは、干潟のそこここに点在するタイドプール(潮溜り)の中でうごめいている小魚、カニ、エビ、ナマコ、イソギンチャクなどの小動物の多さである。それは、私が子供の頃の三陸リアス式海岸の光景ではないか。
 更に驚くものと私は出会った。河口の町ナントのレストランで夕食に出てきた料理である。「シラスウナギのパイ皮包み」である。
 なんと、ここでは、ウナギの稚魚を食料にしているのだ。大西洋で産卵して育った稚魚が、ロワール川に大量に遡上しているのである。
 実は私は高校を卒業する頃まで、家の前の海でウナギを採っていた経験をもっている。秋口、台風などで大雨が降り、海が少し濁った時、ドウシバといって、雑木の枝を葉がついたまま束ねたものを海に沈めておきそれを網ですくってウナギを採っていたのだ。エビやカニなどが隠れ家とするため、それを食べに大きなウナギがここに刺さるのだ。
 日本のウナギは、フィリッピンの辺りで産卵し、黒潮にのって日本に近づき、川で5年から10年過ごして、また海にもどっていく。森と海をつなぐ指標生物である。ウナギの稚魚が食料にするほど川にのぼっているということは川をとりまく環境が良好ということなのだ。あれほど採れていたウナギが三陸の沿岸からバッタリ姿を消したのはやはり昭和40年代からだったのである。
 私は旅のコースを少し変えて、沿岸域からロワール川を逆上ってもらった。
 そこは、トウール地方と呼ばれ古城なども多く、フランスでも自然環境を特に保全している地域なのである。私の目を惹いたのは、見事に続く、ブナやナラなどの落葉広葉樹の森であった。それは、私の子供の頃の三陸リアスの原風景である。湾の奥に注ぐ川の上流域は、当時殆どナラを中心とした落葉樹であったことを思い出していた。森と川と海は一つのものなのだ。そこで私はそう確信したのである。

3. 山に登った漁師

 自分達の暮らしの場である気仙沼湾を海から森までじっくり観察したのは初めてであった。
 気仙沼湾に注ぐ大川河口に行ってみると、かつては、干潟が続き海苔の養殖が盛んであった。春先には潮干狩りの人々で賑わい大川河口はこの地方の人々の憩いの場でもあったのである。
 しかし今そこは、ものの見事に埋め立てられコンクリートジャングルと化している。またごみも多く散乱しており昔の面影は全く消えていた。
 河川敷の石垣に目をやると、茶色で油ぎっている。水産加工場から排出されるのだろう魚油が酸化して腐り異臭を放っているのだ。
 しかし、少し上流に上がるに連れ、川本来の姿を取り戻してきたのでホッとした。ウグイや、アユの姿なども見えはじめている。リアス式海岸は、元々、川が削った谷が、地殻変動で沈降し、縄文大海進で海の水位が上がり、谷に海が逆に入り込んで出来た地形である。だから、海に溺れた谷「溺れ谷」とも呼ばれている。
 いきなり川の両側に山が迫ってきて、深山幽谷の世界が現れてきた。
 この曲がりくねった道沿いに10年以上も前から「新月ダム計画反対」の看板があることは知っていた。だが、まさかここがその計画地であることは知らなかった、というよりは感心がなかったのである。
 白い鳥が飛んでいるのでよく見るとカモメだ。海から八キロしか離れていないのに、こんな所をせき止められては海が死ぬと直感した。
 久しぶりで水田地帯にも立ち寄ってみた。昔に比べてやけに静かなのだ。農薬を散布している農家の人を見て、農業の在り方にも大問題があることを感じた。
 山にも行ってみた。私が子供の頃に比べて圧倒的に杉山が多い。間伐をして、手入れがゆき届いている山は下草も十分生立、見事な美林になっている。しかし、そうでない山は悲惨である。陽が入らないため真黒で下草が全く生えていない。そのため表土が雨に流され根がむき出しになっているのだ。昔は少々雨が降っても川が濁ることはなかったが原因は森林の荒廃にまで遡ることだったのである。
 このことは、沿岸域の海の生物生産が森林の腐葉土を通ってきた河川水が大きな役割を呈していると同時に負荷を与える物質も陸側の人間の生活、人間のものの考え方と密接な関係にあることを示唆している。さらに、縦割りの行政システムが弊害となって横たわっているのだ。分割されたシステムは、自然を全体として捉えておらず、バラバラなのである。
 河川水が流れ込む汽水域でカキを育てている漁民が、もっとも自然界のメカニズムを知る立場にあったのだ。
 漁民が川を遡って上流に広葉樹の苗を植える理由はそこにある。

4. 森と海とのサイエンス

 北海道大学水産学部松永勝彦教授との出会いは幸運だった。森と海との関わりを見事に科学的に解明して下さったのである。
 松永教授は元々化学者で、海水中に含まれる微量元素の分析が専門である。特に水俣病の原因となった水銀の分析が知られている。当時、天然の海水中に含まれる水銀の量が確定されていないため、人為的に流された海域と天然の海域との比較ができなかったのだ。
 松永教授は、極く微量の自然海水中に含まれる水銀の量を、世界で最も正確に測定したのである。そのことは、イギリスの科学誌「ネイチャー」に掲載された。
 教授のもう一つの専門が「鉄」の研究である。水の中に溶け込んでいる鉄は、動物でも、植物でも、生命体を維持するのに不可欠な物質なのだ。ところが鉄は昔から学者の間で「鉄は粒子である」といわれているように、酸素と結びつきやすい性質があるため、どんな形態の鉄が生物の体内に取り込まれるのか未解明な部分があったのである。つまり、酸素と結びついて粒子になると、大きくて植物の細胞膜を通過できないのだ。
 松永教授は北海道大学教授となり、あることに興味をもった。というより、漁民の惨状を知ったのである。
 北海道の日本海側といえば、かつてニシンの大漁に湧いた好漁場である。海岸の岩場に育つコンブに産卵のため、ニシンが群れをなして押し寄せていたのだ。
 ところが、いつの頃からか、このニシンもバッタリ姿を消した。また、岩場を覆い尽くしていたコンブが生えなくなり、石灰澡という生物が岩場にはびこり出したのである。
 石灰澡は、コンブの胞子を殺す物質も出すため、一度この生物に覆われてしまうと生物の住めない世界になってしまうのだ。
 海藻が生えないと、ウニやアワビも生きてゆけない。
 今まで、水産の研究者は、原因は海にあるものと思い長年研究してきたのだが解明されることはなかったのである。
 松永教授は何度も現場に足を運び調査を開始した。その結果、同じ対馬暖流が流れている函館から恵山にかけての海にはコンブが繁茂していること。また、日本海側でも、川が流入している海域には比較的海藻が生えていることに気がついたのだ。
 陸側に原因があるのではと疑問を感じた教授は、専門の鉄分濃度を調査してみた。すると沿岸まで森林が迫っている所、河川水が流入している所は鉄分濃度が高く、そうでない所は、極端に低いことが分かったのである。海の荒廃の原因は陸にあったのだ。そのような視点、研究の領域は、境界学問の世界といえる。ここに籍を置く学者は殆どいないのだ。
 教授の目は森林に向けられた。その結果、森林(特に広葉樹林)の腐葉土が重要な役割を担っていることが解ったのである。
 腐葉土が形成される段階で、フルボ酸という物質が出来、これが土中でイオン化した鉄と結びつき、フルボ酸鉄となる。フルボ酸と鉄が結びついてしまうと、酸素と出会ってもそのままの形を保たれ、川を通して海まで届き、植物に吸収される。また、この時、この鉄に、石灰藻を殺す物質が付着していて、海底にふり注ぐ。つまり、森林の腐葉土が両面の働きをしていたのである。
 このことを解明した時教授は、自然界のメカニズムの不思議さに驚くばかりだったという。

5. リアス式海岸

 三陸リアスの真只中に暮らしていたから、リアスという言葉の意味を理解していなかった。入り組んだ湾は、海の波が削って出来たものばかりと思っていたのだ。
 ところがスペイン語であるリア(スは複数のS)とは、潮入り川という意味であった。つまりこのような入り組んだ湾は、元来、川が削った谷が地殻変動で落ち込み、そこへ海がゆっくり入り込んできた地形だったのである。だから、リアスの主役は、川であり、上流の森だったのだ。
 このことは、三陸リアス式海岸の魚貝類が豊富なのは、そこに川が流入していることが重要なのだ。鉄が供給されているのである。
 今までの学校の教育でも、波が静かな入り江だから、カキ、ホタテなどの養殖業が盛んだと教えてきたが、これは片手落ちだったのだ。
 松永教授に依頼して、気仙沼湾と大川の関係を調査してもらった。
 気仙沼湾には5つの漁協があり年間約20億円の水揚げがある。その20億円の9割、18億円分は、大川の河川水によって養われていることが判明したのだ。
 漁師が山に木を植えなければならない必然性は、こうして科学的にも証明されたのである。
 やはり森は海の恋人だったのである。