【自主レポート】

自治労京丹後市職員組合誕生をめぐって

京都府本部/自治労京丹後市職員組合・執行委員長 志田慎太郎

 京都府北部丹後地域の6町が合併して「京丹後市」とスタートしたのは2004年4月1日のことであり、その日に自治労京丹後市職員組合の設立大会が開催できたのは自治労京都府本部、連合丹後地協をはじめ関係機関の皆さんの絶大なる支援・応援があったおかげであることを先ず感謝したい。この報告書を作成している時点での情勢を基点に時間軸を多少前後させつつ、「自治労京丹後市職員組合」の設立に係わっての逸話を取りまとめてみたい。
 2004年7月現在、先の参議院選挙の結果、京都での政治勢力図が大きく変わった事にまず感慨深いものがある。

1. 追想(自治労京都府本部存亡の危機=京都自治労連の誕生)

 ご承知のとおり京都府は共産党の勢力が強く、1989年(平成元年)11月21日の連合(日本労働組合総連合会)誕生当時においては私達自治労の単組も共産党系組織に丸ごと吸収されかねない状況にあった。
 京都市あるいは南部の単組にあっては自治労中央の情報も入り、共産党系の動きにいち早く気づくことができた訳であるが、悲しいかな私の出身単組であった網野町職をはじめ北部単組は全て、当時の地協(奥丹後地域協議会=6町で構成)の役員(共産党)の誘導のままに反連合・反自治労のキャンペーンを鵜呑みにし、正に共産党系組織に雪崩込むスケジュールに乗せられていた。その事態に私自身が気付いたのは全くの偶然といってよいものであった。
 その当時、私の職場の上司(管理職)が「逢わせたい人物がいる。」ということで出会ったのが昨年まで連合京都会長をされていた、羽室氏だった。
 その紹介(仲介)をしてくれた上司は網野高校卒業後京都市職員となり、羽室氏と同僚となり、京都市職員として数年勤務の後、網野町職員として帰郷したという経歴の持ち主であった。
 日本全体が政治運動・労働運動の熱かった時期に青春を過ごした者同士の信頼関係を強く感じた出会いだった。その時も羽室氏は旧交を温めて饒舌になるということは決して無く、私に対しても熱弁をふるうという訳でもなく、正に「寡黙な人」という印象が強かった。むしろ、私の方が、その当時の網野町職やら従前府本部執行部の指導(所謂上納組合費の単組留保)といったモヤモヤとした疑問を乱雑にぶつけ、興奮していたように記憶している。
 結局、そのややこしい事態を招来している根元(背後)が共産党だということをはっきりと説明され、目から鱗が落ちるという状態であった。今となっては自明な事態であるが、その当時は共産党系組織(支持者)の様々な隠蔽工作と所謂「情に訴える」というような感情論が混沌としており、あやうくその催眠術的手法に陥没するところであった。
 背後に共産党の存在が大きくのしかかっているということに気付いたときには、単組の「意思決定」というものは既に骨抜きに近い状態に至っていた。「共産党系の組合への結集が機関決定されるならば、脱退だ。脱退した後は非組合員となるだけだ」という姿勢が、一番大きな勢力になりつつあった。すなわち、この大きな労働戦線の再編の混乱に乗じて、いっそ「非組合員」になった方が得策だという、悪しき「中立主義」が拡がりそうな気配であった。
 幸い、共産党のこの動き(反連合・反自治労)に対して、私とはまた別のルートで感知していた組合員の存在があり、その少数グループで「自治労」への再結集が話し合われ、「自治労網野」の再建へと動き出した。自治労中央が連合の傘下へ結集していった1989年11月から遅れること2年2ヶ月1992年1月、「自治労網野」は再建に漕ぎ着けた次第である。更に「自治労大宮」はその1年後の再建であった。
 個人個人としては、組織全体がどのように運営されているかということに対して漠然となりでも「おかしい」とは感じていても、自らがその状況に異議申し立てを行うという具体的行動に出ることとの距離は計り知れないほど大きい。事後に分析やら釈明を行うのは容易ではあるが、まさに「今」という場面で決断を迫られれば、逡巡する方が当たり前と思われる。何事かを選ぶ、すなわちそれ以外の選択肢を捨てる行為にはただならぬ勇気が必要だ。
 その意思表示を行うときに一歩先、半歩先を突き進む人の存在はとても大きな励ましになる。そしてその決意に感応してくれる仲間がいれば、緩やかであっても確実に情勢は動いて行く。
 私達「自治労派」が網野町で再建を図ったとき、組合員資格者約170名の内、自治労組合員は10名前後であり、全くの「第2組合」「少数派」であった。しかし、悲壮感はまるで無く妙に楽観的気分に湧いていた。その再建当初の執行委員会(組合員=執行委員)内部では「まあ、半年以内には組合員数を並べて、その内に構成組合員数を逆転してやろう」と言い合っていた。
 そしてそのハッタリ(願望)どおり、およそ半年後には組合員数で肩を並べ、青年部数では多数派を達成することができた。青年層が主流派になれば当然、新規採用職員の組織化も主導権を握ることとなり、再建後3年で多数派となることができた。
 1年後に再建を果たした「自治労大宮」についても、ほぼ同じ経過を辿ったようである。つまり、組織が分裂していることの直接的原因(共産党指導)を新規採用職員に納得してもらい、殆どの新人を自治労に組織化できたことによって、徐々に自治労派が多数派に転じることができたのである。
 「自治労大宮」の場合は、組合員数での逆転に多少時間がかかったようであるが、先行する「自治労網野」の状況を見て、泰然と構えていられたのではないかと推察される。いずれにしても、青年層の活力がそのまま組織の伸張に大きく影響を与えていることに相違は無い。

2. 合併への足跡(晴天の霹靂の如き合併への動向)

 地方分権一括法が成立するやいなや「市町村合併」の動きが顕著になった。私の人事異動があった平成12年4月には、国の方では着々と(粛々と)進行していた事柄であるが、私自身全く実感が伴わないものであった。それどころか、「どうせ、腰砕けになるんじゃないのか?」と高を括っていたと言ってもよいぐらいであった。むしろ、自分自身にとっては、当時の網野町の「財務会計システム」の変更が行われ、旧システムによる平成11年度決算調製をしつつ平成12年度からの新システムの移管に忙殺されていた。
 それが、あれよあれよと言う間に、丹後6町の間で合併スケジュールの「検討」に乗り出し始めたのである。平成13年には網野町の町長選挙が行われたわけであるが、そのときの対立候補者は熱っぽく市町村合併の議論を巻き起こそうと躍起になっていた。しかし、恐らくこの段階においてすら、多くの町民は合併を現実のものとして意識していなかったのではないかと思われる。
 具体的に丹後6町が合併への事務協議をどのようなスケジュールで進行させていったかは別添<資料1>から<資料2>のとおりである。また、合併協議会の概要及び京丹後市の特徴・理念については<資料3>から<資料4>に掲載されている。(いずれも京丹後市企画政策部企画推進課作成による『京丹後市への道』より抜粋。)
 資料からも分かるとおり、合併協議会設置(平成14年4月1日)から新市発足まで、ちょうど丸2年間掛かっているわけであるが、やはり事態が煮詰まっていったのは1年程前という感じである。というのも、私自身が合併協議会出納(会計)部の網野町選出協議員としてほぼ月に2~4回の会合が持たれるようになったのは15年に入ってからであった。
 資料にもあるとおり、平成14年11月の協議会で「基本3項目の確認」が行われ、6町の各庁が支所機能を持つことが決定された。(ただしこの段階では合併期日を平成16年3月1日としており、平成16年4月1日に変更確認されたのは平成15年7月23日である。如何にスケジュール的に厳しくなっていったかが、伺い知ることができる。)
 財政の効率で考えれば一極集中(庁舎を一つの町だけにする)するほうが良いだろうが、今まで行われてきた行政サービスの水準を維持しようとするならば、支所機能をなくす訳には行かないということで、喧々囂々の議論が各検討部会で展開された。
 私の直接関与した「出納・会計」部会でも、都道府県における振興局のように「公所指定方式」(資金前渡による権限分立方式)を採用すべきだという意見と収支の管理は一極集中すべしという意見が長く揉めた。最終的には各部単位は一つの庁舎に配置し、住民との直接対応を必要とする部署については各6町に「地域総務課・地域事業課・地域福祉課」という所謂「地域振興対策課」が設置されることに落ち着いた。
 さてこのように新市の組織機構のアウトラインが固まりつつあるなかで、我が自治労はどのようにこの事態を乗り切れば良いか?
 6町のうちで「自治労」の旗が揚がっていたのは網野町と大宮町だけであった。先に述べたとおり、網野町も大宮町も10名前後で再建した自治労組合であったが、その10年後は下記のとおり網野町・大宮町ともに自治労連派を凌駕し、多数派になることができた。

2004年6月30日現在の丹後6町における組合員数

自 治 労
単組名
備考
自治労網野
49
60
109
 
自治労大宮
38
31
69
 
87
91
178
 
自治労連
単組名
備考
網 野
34
24
58
 
大 宮
7
28
35
 
峰 山
52
75
127
 
丹 後
46
38
84
 
弥 栄
57
191
248
公立病院含む
久美浜
63
144
207
公立病院含む
259
500
759
 

 ところで、合併して新市へ移行すれば我が自治労派はたちまち新市では少数派となってしまう。それだけでなく漫然と合併前後を経過させてしまうと、せっかくの組合員が「非組合員」となってしまい、最悪の場合、旧町消滅と同時に組合消滅ともなりかねない。この危機感を自治労京都府本部・自治労網野・自治労大宮の3者が共有し、当局の合併協議会に並走するように協議を重ねられたのが、新市スタートと同日に旗揚げできた理由であろう。
 私自身も具体的スケジュールをより明確化するために、平成15年12月にジングルベルの音を聞きつつ、別添<資料5>自治労京丹後市発足スケジュール「私案」を作成してみた。残り3ヶ月という時間を考えると、このとおりに粛々と消化していけるだろうかという不安を抱えつつ、最終的に4月最初の給料支給日に組合員の組合費が天引き(チェック・オフ)されるよう、その日から遡及して日程を書き上げ、それを時系列に並べ替えて作成したものである。
 今となっては公平委員会登録の関係や、組合員からの加盟届けの取り直しを想定していた部分があり、実際とは違う経過を辿った訳であるが、「私案」どおり4月の初旬に臨時大会(設立大会)、しかも4月1日開催を成功裏に収められたのは非常に嬉しいことであった。
 この期日についても府本部執行部の方々の助言・支援なくしてはあり得ず、重ねて感謝したい。公平委員会登録申請書に機関決定の期日を「平成16年4月1日」と記載して申請できたことは本当に誇りに思えることである。
 自治労連に対する公平委員会の承認等については、我々が批判がましく干渉できる事柄ではないが、少なくとも「自治労連京丹後市組合」=単組としての大会は、4月1日以降に開催されておらず、役員の選出選挙も行われていない。合併前に連合体を組織し、それが4月1日以降は単組に移行するという大会を開催したようであるが、その時の委員長・副委員長は管理職任用となったため、そのポストが欠員のまま登録となった様子である。代行代表のような形で登録されたものと思われる。
 公平委員会登録そのものが、組合の活動を保証してくれるといったものではなく、あくまでも組合活動は組合の自主的・民主的ルールに則って行われれば良いのではあるが、今日の労働組合として、第3者の視点に耐えうる自律の根拠としての法準拠という姿勢を取りたいと考えている。恐らく「言いっぽかし」の自治労連には、最初から思慮の及ばない考えだろうと思われる。

3. 組織化への最大の障壁

 以上のように、自治労網野と自治労大宮の合同がその構成組合員の殆どを捕捉する形で自治労京丹後市の誕生を迎えられた訳であるが、その直後から今日までの3ヶ月余りを経過しての組織化ということを振り返ってみると、自治労結集への敵はもはや、自治労連ではないと感じられる。それよりもむしろ、行政本体の組織変化のどさくさ紛れに「非組合員」に沈潜していこうとする意識のほうが厄介である。
 旧6町のうちのある町の組合(自治労連系)は、6月時点で直近の執行部役員が組合脱退し、青年層の殆どが「非組合員」になったという情報を得ている。これが追想で述べた頃の組合員であれば速やかに自治労加盟へ結びついていたが、現在のそれらの非組合員はその当時と違って「非組合員」でいることに逡巡がないように見える。実際の心中を推し量ることはできないが、非組合員でいる事の不安やら後ろめたさといった印象は感じられない。
 自治労連=共産党という関係が透けて見えているのに、政党と組合は関係ないのだと白をきっていることにうんざりしたというのも一因ではあろうが、もっと虚無的な雰囲気を感じる。そしてこの虚無的姿勢は伝播しやすいというのが一番恐ろしい。正に自治労結集への最大最強の障壁がこの虚無的姿勢というやつである。
 幸い、この4月1日採用に係る新規採用事務職員6人のうち6人が、我が自治労京丹後市職員組合に加盟してくれ、青年部に参加してくれたものの、青年部対象となるべき相当数の職員が「非組合員」の状態でいる。
 自治労網野・自治労大宮の組織拡大への足跡を辿ってみても、新人組合員・青年組合員の組織化が最重要課題であることは間違いない。虚無的姿勢に悪固まりしないうちに、しっかりと組織化していくことである。そのためにも、先行世代が手本を示しつつ、青年層に組合の本義を伝えていく責務があると痛感している。
 まだスタートして間が無い時点で、整理しきれないまま雑感風に「自治労京丹後市職員組合誕生」前後を書き上げてみました。私自身が、労働安全衛生の観点から見ても無茶な時間外労働を消化しつつ、思い浮かぶ追想も交えて書き述べてしまい、非常に読み辛いものになってしまい申し訳ありません。
 競合単組として恐らく全国の町村合併でも特異な例と思われます。自治労連の分裂騒動時に比較しても厳しい道のりでしょうが、自治労が多数派を形成できるよう努力して行きたいと思いますので、皆さんのご支援をよろしくお願いいたします。

資料1 合併協議会設置までの主な経過

資料2 合併協議会設置以降の主な経過

資料3 合併協議会の概要

資料4 京丹後市の合併の特徴

資料5 自治労京丹後市発足スケジュール(私案)