仕事をしていると、「こんなふうにしたら、もっと喜んでもらえるかな」とか、「こうすればもっといいサービスが提供できるのに」って思うことがあります。その思いを職場の仲間、市民といっしょに実現しようとすることが「自治研」「自治研活動」です。「自治研」という言葉は、「地方自治研究」の略です。

 「組合の任務は、労働条件の改善でしょ。仕事の中身は関係ないでしょ」。そんな声も職場にはありますが、住民に喜ばれる仕事、市民から信頼される仕事をしていかなければ、やりがいのある仕事を実現することができないばかりか、質の高い公共サービスを提供することはできません。

 また自分たちの賃金、労働条件の改善だけに取り組んでいる労働組合に、市民からの共感は得られません。 自治労は公共サービスに携わる労働組合として、この自治研活動を自治労運動の大きな柱として位置づけ、1957年から取り組んでいるのです。

 1957年4月、山梨県甲府市において第1回地方自治研究全国集会(自治研全国集会)が開催されました。時代は、朝鮮戦争後の地方財政の危機が、すべての自治体に重くのしかかり、福祉をはじめ公共事業の打ち切り、職員の合理化、賃金ストップなど、赤字財政のしわよせは、一方的に、住民と職員に転嫁されていました。

 地方財政危機への対応に迫られていた自治労は、「人員不足、労働強化という問題をそれ自体としてのみ取り上げるのではなく、職場のなかに地方自治体をめぐる多くの問題を明らかにし、自治体を住民のものにする努力が必要なのではないか」と考え、手さぐりの状態で自治研全国集会は開催されました。

 第1回の基調テーマは、「自治体は住民の要求にどう応えているか」。参加者は1,000人。組合員のみならず、地方議員や市町村長、助役の参加もありました。
  
 そしてこの自治研全国集会の模様を大々的に報道したのが、朝日新聞でした。組合員自らが仕事の見直しを主体的に取り組むこの運動は、それまでの西欧諸国の公務員組合にはない、独創的な取り組みであり、労働組合として画期的な研究集会だったのです。さらに2年後の1959年には、自治研活動の全国交流誌、「月刊自治研」が創刊され、現在も発刊され続けています。

 60年安保後の1961年、第5回となる静岡自治研から、「地方自治を住民の手に」が基調テーマとなりました。そしてこの全国自治研で、衝撃的なレポートが報告されました。四日市公害の告発です。四日市市職労と三重県職労が四日市公害の実態を調査し、その内容を明らかにしたのです。そしてこれをマスコミが報道するや、大きな反響がおこったのです。やがて、公害問題が社会問題化し、経済優先社会の転換が求められることとなったのです。その四日市公害告発のきっかけは、1961年の自治研全国集会だったのです。 

 翌年の第6回となる大津自治研には6,346人が参加。そこに設けられた清掃分科会では、大阪から駆けつけた100人の主婦をまじえ、し尿、ごみ問題が具体的に討議されました。そしてこの分科会では、住民と自治体職員がともに手をつないで清掃改善運動に取り組むことが確認されたのです。自治研が求めていた住民との共闘、すなわち「職場自治研」から「地域自治研」へと広がりをみせたのでした。

 その後も自治研活動は全国で展開されていきます。

 1976年、沼津市において日本で初めて、「ごみの分別収集」が始められました。そのきっかけは職場内での職員間の話し合いの中から生まれた自治研活動が、画期的な資源循環型リサイクルシステムをスタートとさせたのでした。
 また今や多くの自治体で実施している「急病人の休日・夜間診療」は、自治労衛生医療評議会を中心とした運動が実を結び、70年代中頃から全国に広がっていった制度です。
【詳しい内容は、≪自治労の自治研活動から全国に広まった制度・政策→『ごみの分別収集』」『急病人の休日・夜間診療』≫をごらんください】

 また、70年代に入ると、全国に革新自治体が誕生。飛鳥田横浜市長をはじめ、美濃部東京都知事、屋良沖縄県知事も自治研全国集会に参加。そして1985年の第21回自治研全国集会(大阪)には、自治研史上最高の、7,000人が参加したのでした。その後も自治研全国集会は、その時代を反映したテーマを掲げ開催され、分科会には職場、地域から毎年多くのレポートが提出されています。
 なお、毎年開催されていました自治研全国集会は、1973年の第15回より2年に一度の開催となっています。

第1回自治研全国集会の会場となった甲府第一高等学校
第1回自治研全国集会の全体集会(講堂)
第1回自治研全国集会を報道する朝日新聞
第5回静岡自治研
四日市公害を告発するレポート
第6回大津自治研分科会報告文
第13回東京自治研には革新首長も出席(左から美濃部東京都知事、屋良沖縄県知事、飛鳥田横浜市長)